HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

ミューザ夏祭り2024./沼尻・N響ブラームス演奏を聴く

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【日時】2024.8.4. (日)16:00〜

【会場】ミューザ川崎シンフォニーホール

【管弦楽】NHK交響楽団

【指 揮】沼尻竜典

〈Profile〉

東京都出身。桐朋学園大学卒業後、ベルリン芸術大学に留学。指揮を小澤征爾、秋山和慶、尾高忠明、ハンス=マルティン・ラーベンシュタイン、作曲を三善晃、ピアノを徳丸聡子、藤井一興に師事。

ブザンソン国際指揮者コンクール優勝後、国内オーケストラの主要ポストを歴任。海外での活動も多く、ロンドン交響楽団、ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団、シドニー交響楽団、トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団、ベルリン・ドイツ交響楽団、ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団、デュッセルドルフ交響楽団、ダルムシュタット国立歌劇場管弦楽団、ワイマール国立歌劇場管弦楽団、オーデンセ交響楽団(デンマーク)、ハイファ交響楽団(イスラエル)、香港フィルハーモニー管弦楽団などを指揮している。2008年にはカナダの名門、モントリオール交響楽団を指揮して北米進出を果たした。現在、神奈川フィルハーモニー管弦楽団音楽監督。

 

【独 奏】戸田弥生(Vn.)

〈Profile〉

  4歳からヴァイオリンを始め、1985年には第54回日本音楽コンクールで第1位。桐朋学園大学音楽学部を首席で卒業し、1992年アムステルダムのスウェーリンク音楽院に留学。

 1993年エリーザベト王妃国際音楽コンクール優勝以来、日本を代表するヴァイオリニストの一人として、圧倒的な集中力による情熱的な演奏で聴く者を魅了している。 江藤俊哉、ヘルマン・クレバース、シャルル・アンドレ・リナール、ドロシー・ディレイの各氏ほかに師事。日本のオーケストラはもとより、ニューヨーク・チェンバー・オーケストラ、モスクワ・フィルハーモニーなど各国の交響楽団、また、小澤征爾、ユー リー・シモノフなど数多くの演奏家と共演している。1999年にカーネギー・リサイタル・ホールで室内楽を中心としたリサイタル「Yayoi and friends」を開催。国内外のコンクール審査員としても招かれ、2005年にはエリーザベト王妃国際音楽コンクールのヴァイオリン部門審査員を務めた。 現在フェリス女学院大学音楽学部演奏技術教授

 

【曲目】


①ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op. 77

(曲について)

ブラームスは幼時からピアノよりも先にヴァイオリンとチェロを学び、その奏法をよく理解してはいたが、最初の、そして唯一のヴァイオリン協奏曲を書き上げたのは45歳になってからだった。これは、交響曲第2番の翌年という、彼の創作活動が頂点に達した時期にあたり、交響的な重厚な響き、入念な主題操作、独奏楽器を突出させないバランス感覚、いずれもブラームスの個性が存分に表現された名作となった。本作品は、ベートーヴェンの作品61、メンデルスゾーンの作品64と共に3大ヴァイオリン協奏曲と称される事も多い。


②ブラームス(シェーンベルク編):ピアノ四重奏曲第1番 ト短調 op. 25(管弦楽版)

(曲について)

 ブラームスの青春の懊悩を宿した『ピアノ四重奏曲第1番』は三つあるピアノカルテット曲の中でも一番有名でしょう。室内楽のージャンルであるピアノ四重奏曲では、ピアノ・パートと三種類の弦楽器 がいかに密接に結びつき絡み合うか、ということが重視されてきた。そんなジャンル に1855年頃から1861年にかけて初めて挑んだのが、20歳台のブラームスである。 当時のブラームスは、恩人と仰ぐロベルト・シューマン (1810~1856)の精神錯乱と悲劇的な死、彼の妻であったクララ・シューマン (1819~1896)に対する秘め たしかし叶わぬ恋愛感情などに、身もだえする日々を送っていた。またそうし た状況の中で書かれた当作品は、彼特有の激しく情熱的な楽想も相まって、単に室内 楽曲という枠組みを超え、シンフォニックな響きを具えていたのです。

◯シェーンベルク編曲版の独創性

この点に着目し、1937年に大オーケストラ用の編曲をおこなったのが、「現代音楽」の旗手のように言われる アルノルト・シェーンベルク (1874~1951)です。ただしシェーンベルク編曲版が、ブラームス風のオー ケストレーションに則ったものかといえばそうではなく、むしろオリジナルを一度解体した上で再構築したもの となっている。

 たとえば、ほの暗い情熱に溢れた第1楽章。その冒頭に出現する第1主題の最初の4音 「D・B・Fis・G(レ・ シャ・ファ・ソ)」は、憂愁に溢れた音色のクラリネットで演奏される。この音型が第1楽章を構成する重要な存在であることを聴き手に悟らせようという工夫に他ならないのです。「間奏曲(インテルメッツォ)」と銘打たれた第2 楽章でも、人生の孤独を感じさせる主部では、弦楽器が終始弱音器を付け、木管群が奏でる寂しげな主題を支え続ける。さらに第3楽章の途中に出現する行進曲風の楽想を、シェーンベルクは軍隊の行進よろしく、グロテスクに爆発させて楽章に具わった激しいコントラストを過激なまでに強調。そして、ブラームスが得意としたハンガリーの ロマ風の音楽を基調とした第4楽章でも、クレズマー (東欧やドイツ語圏に定住したユダヤ人の音楽)を彷彿さ せるクラリネットの甲高い響きを加えたり、伝統的な西洋音楽において乱用がタブー視されていた打楽器をこれ でもかと解き放ったりしている。

    [配布されたプログラムノートより]

 

【演奏の模様】

①ブラームス:ヴァイオリン協奏曲

楽器編成:フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4(2楽章で3番ホルンと4番ホルンがtacet)、トランペット2(2楽章でtacet)、ティンパニ(2楽章でtacet)

二管編成弦楽五部14型(14-12-10-8-?見えなかった

全三楽章構成

第1楽章 Allegro non troppo

第2楽章 Adagio

第3楽章 Allegro giocoso,ma non troppo vivace - Poco più presto

 戸田弥生さんの演奏は、昨年の「春祭」の時にイザイの無伴奏ソナタ全曲演奏を聴いた事が有ります。相当高度な技術を身に着けている奏者であることを実感として感じました。参考までにその時の演奏会の記録を文末に抜粋再掲します。今回は、これまで聴いた事の無い管弦楽をバックにしたコンチェルトの演奏なのでどんなものなのか興味と期待と半々で聴きに行きました。

 「春祭」からまだ1年チョットしか経っていないのに、登場した戸田さんは以前とはかなりイメージが違って見えました。白いドレスの演奏着には女性の顔をデザイン化した大きなモダン柄が施され、一種の勝負着なのでしょうか?何かパガニーニでも弾きそうな雰囲気。

 しかし指揮者のタクトが動き、VaとVcを背景にFg.が渋い旋律を奏でて、続く木管の調べの後跛行上行する弱目のVn.アンサンブルを引き継いで、ジャッジャジャージャ、ジャジャジャーという調べで弦楽アンサンブルが下支えをしています。まだ戸田さんは楽器を顎に当てていない。木管と弦楽とが互いに掛け合ってひとしきり弦楽アンサンブルが全管と共に序奏の旋律をかき鳴らし、再度弦楽がジャッジャジャージャ、ジャジャジャー、と強いアンサンブルを繰り出し、暫くするとようやく独奏ヴァイオリンが、おもむろに音を立て始めました。随分と速い上行旋律でした。一旦下行しては再び登山電車がスイッチバックで高度を上げる様に、小刻みに上がっては下りまた上がるを繰返すソロヴァイオリン、暫くは上行下降を繰返すのでした。

 しかしこの戸田さんの第一撃が、少し弱い様に感じたのです。これは自分の座席のせいでしょうか?今回の演奏会は、発売日から少し遅れてチケットを取ろうとしたら、舞台正面を望む席たちは各階とも売れ切れていて、結局二階右サイドの舞台横(Cb.の後ろ)の席になったのでした。確かに観客は超満員の入りで、夏祭りは日を追うごとに多くの人が集まって来ている模様です。慶賀の至りですね。この立ち上がりの一節だけでなく、その後暫くは弱含みの演奏が続いた様に思われました。そうして管が休止の中それが一転したのが、カデンツァ的に(弦楽の弱い音は続いていました。後、管の弱奏も入る)演奏し始めた辺りからソロ楽器は良く鳴っているし、Dinamikは効いているし本領を発揮し出した感が有りました。この長い(曲の2/3近い)楽章の最後の本カデンツァの重音演奏も、見事に弾き切り、管弦アンサンブルが弱音で支え始めてからもソロの力奏は続くのでした。

 オケとのやり取りを聴いていると、結論的にやはり全体として見事な技術と音しょくを持った旋律を次から次と繰り出し、相当な高みに自身を高めていることが良く理解出来ました。

 第2楽章冒頭の木Ob.のソロ演奏がまた良かった。先日の都響(1/8)の女性奏者のOb.もその華やかな高音の調べが珠玉の音だったのですが、今回のN響の男性奏者は、又違ったおん色の安定的な調べ。どちらかというといぶし銀の輝きを持った調べでしょうか。どこの管弦楽団でもOb.奏者はいい腕をしているなと、いつもながら感じました。ここでもソロVn.は管の演奏後、同様にフオローする調べを戸田さんは、益々登り調子といった風に腕を振るっていました。特にその高音が冴えていた。その音は次の3楽章でもそうだったのですが、その高音は決して華やかな色どりを有してはいないのですが、どちらかというと地味な方かな?でもそれが今回のブラームスらしさをより一層強く感じさせるものでした。

 3楽章は荒々しさを発揮する民族的旋律の演奏です。この辺りになると、戸田さんは立ち上がりの時とは大違い、パワフルに弓と左手を相対峙させ、弦の駒に近い方を力を籠めてボーイング、一種のハンガリアン的舞曲なのでしょうか?ブラームスらしさを一層感じる、洗練はされてはいないが、心優しい強さを持った曲想を、独奏ヴァイオリンと沼尻N響の掛け合いは、十二分に発揮出来ていたと思います。

 今回はソロアンコール演奏は有りませんでした。

②ブラームス(シェーンベルク編):ピアノ四重奏曲第1番 ト短調 op. 25(管弦楽版)

楽器編成:フルート3(ピッコロ持ち替え)、オーボエ3(イングリッシュホルン持ち替え)、E♭管クラリネット、クラリネット2(バスクラリネット持ち替え)、ファゴット3(コントラファゴット持ち替え)、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、バスドラム、シンバル、グロッケンシュピール、スネアドラム、タンバリン、トライアングル

三管編成弦楽五部16型(16-14-12-10-8)

全四楽章構成

第1楽章 Allegro

第2楽章 Intermezzo

第3楽章 Andante con moto

第4楽章Rondo alla Zingarese

シェーンベルクは、知る人ぞ知る「無調性」等で有名な現代音楽の旗手です。その彼が、ブラームスの書いたピアノ四重奏曲第1番をベースとしてオーケストラ版に書き換えたというのですから驚きました。その理由について、彼は、「私はこの作品が好きだが滅多に演奏されず、しかもピアノ・パートに優れた演奏家がいるとそのパートが強調されるためにかえってまずい演奏になるため、全てのパートが聴こえるように編曲した」「(オーケストレーションについては)ブラームスの書法を忠実に守り、もし本人が今行ったとしても同じ結果になったようにした」と語っています。実施聴いてみると、将にこれはブラームスの曲その物、交響曲5番???まさかピアノカルテットの曲から交響曲風の作品が出来るとは?この編曲の事、立場によってあれこれ言う人もいるのでしょうが、この新たなブラームス風の曲を作ったシエーンベルクの天才性は認めざるを得ないと思います。どうやって編曲したのかは二つの楽譜を並べて比較しないと詳細は分かりませんが、恐らく弦楽奏の3パート(Vn.Va.Vc.)は、オーケストラの弦楽アンサンブルにしやすいでしょうが、Pf.パートは主に管に振り分けたのでしょうか?でもそうとは限らない気がします。各楽章共テーマ性の有る旋律は、弦楽→弦楽だけでなく、弦楽→管楽器、時には弦楽→打楽器のリズムとなっていたり、完全に消えたPf.旋律→弦アンサンブルや、Pf.→打のリズムへの変換も感じられるし、様々な工夫をしたと思うのです。その結果は素晴らしいオーケストレーションで芬々とブラームス臭のする作品が生まれたのです。これは、ピアノ四重唱のテーマは利用しているが全く別な作品だと言えるのでは?だってピアノカルテットを聴くと、ピアノの調らべがとても綺麗で、全体としてはピアノ中心の曲だったものが、ピアノのあの大きな存在は全く完全に消えてしまっているのですから。シェ―ベルクの独自の作品と認めてもいいのではないでしょうか。この曲のタイトルに❝(管弦楽版)❞と控え目に書いてありますが、堂々と、シェーンベルク作曲『ブラームスのテーマによる交響曲的組曲』と言っても言い過ぎではないと思うのです。如何が?シエーンベルクの編曲はこの曲一つなのでしょうか?この調子であれば、世の中にある素晴らしい四重奏曲、五重奏曲達を、交響曲若しくは交響組曲として生まれ変わらせることが出来たのではなかろうかと思いたくなりました。それにしても今回は、重厚なブラームス節をふんだんに使った曲を堪能出来たのは望外の喜びでした。

 演奏後、当然の様に満員の会場からは拍手喝采の怒涛の様な爆発が有り、沼尻さん、N響奏者を讃えて一層拍手が強まりました。何回か舞台↔袖を往復した沼尻さんは舞台に戻って、指揮台に飛びあがると(ホントにそんな勢いで)上がった途端指揮を始め、郷古さん以下の弦楽アンサンブルはド迫力の分厚さで「ハンガリ舞曲第1番」の調ベを繰り出し始めました。

 

《アンコール曲》ブラームス『ハンガリー舞曲第1番』 

フェスタ サマーミューザ KAWASAKI 2024
NHK交響楽団
沼尻竜典&N響のザ・ブラームス15:15〜

 (ミューザH.P.より)

 

尚、本演奏の前にホールから演奏音が聞こえたので係員に訊いたら、プレコンをやっているとのことでした。見たらCb.四挺で若い男女(そう見えました)が大きな楽器を操っていました。

[プレコンサート]

  • <曲目>
  • 川上哲夫:コントラバス四重奏のためのソナタ から
  • [出演]
  • コントラバス四重奏
  • 稻川永示、西山真二、矢内陽子、桑原孝太朗

 
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戸田弥生/イザイ『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 全曲』演奏会

【日時】2023.4.1.(土)14:00~

【会場】旧東京音楽学校奏楽堂

【出演】 戸田弥生(Vn.)

   

  <Profile>

 

    《割愛》

 

 

 

【曲目】
イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ op.27

①第1番 ト短調 


②第2番 イ短調 


③第3番 ニ短調 《バラード》 


④第4番 ホ短調 


⑤第5番 ト長調  

 

⑥第6番 ホ長調 

 

(曲について)

フランコ・ベルギー派のスターとして華やかな演奏活動を行なっていたイザイが第一次世界大戦後、米国から帰国し、ソリストから教育者、作曲家に転じようとしていた時期に書かれた作品。バッハの《無伴奏》からの影響を隠そうとせず、そこにロマン的な香りと、現代的なテクニックを加えている。各ソナタが同時代の名だたるヴァイオリニストに献呈されており、作曲者の自負と作品に込められた狙いをうかがい知ることができる。


 ①第1番(ト短調)は全4楽章からなり、ヨーゼフ・シゲティに献呈。イザイが本作品集の創作を思い立ったそもそもが、シゲティのバッハ演奏を耳にしたことであったため、全編にわたり対位法的書法が透徹されている。なかでもフガートの第2楽章は六重音(!)により、アレグロの第4楽章は頻出する重音奏法により、難曲として知られる。


 ②第2番(イ短調)は全4楽章で、ジャック・ティボーに献呈。「Obsession妄執/強迫観念」の副題をもつ第1楽章からグレゴリオ聖歌の「怒りの日」の主題が登場し、すべての楽章でこのテーマが現れる。とくに第4楽章の重音とスル・ポンティチェロの効果(hukkats注1)は抜群。

(hukkats注1

スル・ポンティチェロ(sul ponticello)はヴァイオリン属の弦楽器の特殊奏法の一つ。弓で弦を擦る際、極端に駒寄りを擦って弾くものである。日本人の演奏者の間では「スルポン」と略称されることもある。

弦楽器の演奏において、駒から指板の上の間のどこの弦を擦るかというのは重大な問題の一つである。一般に駒寄りを弾けば強く固い音、指板寄りを弾けば弱く柔らかい音になり、通常演奏者の意図によって選択される。スル・ポンティチェロは、主に作曲者の指示によって極端に駒寄りを弾かせ、基音が少なく倍音の多い異常な音を出させるものである。これは主に近代以降の音楽に多用され、不安定で緊張感を持った表現などに用いられている。演奏者にとっては、誰しも初学者時代に経験した「ガラスをひっかく音」に通じるものであり、嫌われる特殊奏法の一つである。

なお、逆に、極端に指板寄りを弾くものを「スル・タスト(sul tasto)」と言う。


 ③「バラード」の題名を持つ第3番(ニ短調)は単一楽章でまとめられ、演奏機会も多い。献呈者はジョルジェ・エネスク。ルーマニアの民族舞踊を意識したかのようなロンド形式のラプソディが印象的。


 ④第4番(ホ短調)は、フリッツ・クライスラーに献呈。アルマンド、サラバンド、フィナーレの3楽章からなり、サラバンド楽章のオステナート書法には、バッハの「パルティータ」へのオマージュという側面がつよく感じられる。


 ⑤第5番(ト長調)は、同じベルギー人のマチュー・クリックボームに献呈。ドビュッシー風の音づくり、擬古的な五度や四度の多用、さらには「曙光」「田舎の踊り」という二つの楽章表記などから、全6曲中、もっとも温和で素朴な色合いを持つ。


 ⑥第6番(ホ長調)は第3番同様、単一楽章作品で、スペイン人のマヌエル・キロガに献呈。この最後のソナタで作風は一気に現代化し、ヴィルトゥオーソが開花する。キロガに敬意を表した(そして、サラサーテを想わせる)中間部のハバネラが魅力的

 

【演奏の模様】

 久し振りの旧奏楽堂です。30分位早く着いたのですが、受付には既に行列が出来ていました。このホールはどういう風な構造になっているのか分かりませんが、1階からはホールに入れないのですね。狭い急な階段を上って2階に行かなければならない。足の不自由な人や高齢の人は聴きに行けないですね。(文化会館に行っても同様なことをいつも考えます)エレベーターは設置不可なのでしょうか?

 戸田さんは初めて聴くヴァイオリニストです。知らない演奏家でした。これまでに演奏会予定が目に入ったことも有りませんでした。大学で教えている様ですが、最近は演奏会は余りやらない方なのでしょうか?定刻になり登壇した戸田さんは如何にも経験豊かな自信に満ちた風貌をした中堅のヴァイオリニストでした。 

 開演直前、予定曲の前に、バッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第1番 ト短調BWV1001』 より 第1楽章Adagioを演奏する、とのアナウンスが有りました。これは、さもありなんと思いました。だって、今日のイザイの曲達はこのバッハの曲の存在があってこそ地上に生まれ出たとさえ言えますから。

 その曲を登壇してすかさず弾き始めた戸田さん、時々体を曲げ揺すり気持ち良さそうに演奏しています。 四重音から始まるこの調ベは何回も聴いた事のあるのですが、この濃厚な演奏を聴いていて、非常に厳粛な気持ちになり、改めてバッハの偉大さに感動、涙腺が緩んでしまいました。曲が素晴らしいだけでなく勿論戸田さんの演奏が十二分にバッハの意思を伝えていたからでしょう。

 続けてイザイを弾き始めました。

①第1番 ト短調 

 全四楽章構成。この曲を聴くと冒頭のバッハの曲の影響を強く感じます。イザイの何とかバッハの素晴らしい曲に自前で到達したいという切なる願いというか、焦りまで感じました。残念ながらバッハまで至っているとは言い難かったですが。

第1楽章の終盤、前半は何かバッハの曲からの頸き~逃れようとするが脱し得ない苦悶が感じられ、後半のPizzicatoの直前の微弱なトレモロの上に載せられた不気味な音に、何かざわめく心の胸騒ぎがしました。

第2楽章、後半、強い運弓からしだいに強まる重音奏法、最終旋律にはバッハ的響きを感じました。

第3楽章 重音の重しが効く高音の緩やかな旋律で開始、低音のくねくね重奏に高音部の煌めく旋律が美しくイザイの独自性が出てきたと思いました。

第4楽章は冒頭、切れ味の鋭い強いボーイングから発するリズミカルな重奏と続くPizzicatoに連続する軽快性を持続して戸田さんは最後まで力強く弾き切りました。

 この曲ではイザイのバッハからの独立、独自性の萌芽を感じさせる戸田さんの重音演奏でした。尚この第1番のソナタ曲は、作曲の契機を与えたというヨゼフ・シゲティに献呈されました。2番以下も次の通り、当時のヴァイオリニスト達に献呈されています。

②第2番 イ短調 Op.27-2『ジャック・ティボーに献呈』
③第3番 ニ短調 Op.27-3『ジョルジェ・エネスクに献呈』
④第4番 ホ短調 Op.27-4『フリッツ・クライスラーに献呈』
⑤第5番 ト長調 Op.27-5『マチュー・クリックボームに献呈』
⑥第6番 ホ長調 Op.27-6『マヌエル・キロガに献呈』

(参考)

第1楽章 グラーヴェ(Grave)

レント・アッサイ、ト短調、3/4拍子。力強い四重音で始まり、半音階的な、苦悶するような旋律が紡がれていく間に、即興的なパッセージがさし挟まれる。冒頭の主題が再現されるとスル・ポンティチェロ、のトレモロによる不気味なコーダが締めくくる。

第2楽章 フガート(Fugato)

モルト・モデラート、ト短調、2/4拍子。2声のフガートだが特に厳格なものではなく、バッハの無伴奏ソナタにおけるフーガと同様に、主題を対位法的に扱う部分と技巧的なパッセージとが交代する構成をとる。主題の最後の再現では六重音も現れる。

第3楽章 アレグレット・ポコ・スケルツォーソ(Allegretto poco scherzoso)

アマービレ、変ロ長調、3/8拍子。穏やかな間奏曲。中間部は単音のパッセージに縁取られ、ト短調に始まって調性が変転する。

第4楽章 フィナーレ・コン・ブリオ(Finale con brio)

アレグロ・フェルモ(Allegro fermo、不動の速さで)、ト短調、3/8拍子。ジーグやパスピエを思わせるリズムによる重厚なフィナーレ。重音が特に多用される。


②第2番 イ短調

全4楽章構成、演奏時間は12分前後。グレゴリオ聖歌「怒りの日」(hukkats注2が循環主題として用いられています。

何故イザイがこの旋律を取り入れたかは不明ですが、推定されるのは副題の<Obsession妄執/強迫観念>から想像するに、1番の作曲動機がバッハの曲であったことと考え合わせれば、未だバッハの素晴らしい無伴奏曲のくびきを断ち切れないでいるイザイの姿が浮かんできます。

グレゴリオ聖歌の「怒りの日」(hukkatsu 注2                 旋律は、修道士セラノのトーマス(1250年没)によってグレゴリオ聖歌の「Dies irae」の旋律が選定された。 Dies iraeは葬儀において使われていたとのこと。 「怒りの日」とも訳されるDies iraeは、キリスト教においてキリストが全ての人間を地上に復活させ、審判を行う「審判の日」のことを指す。歌詞(ラテン語)は次の通り。旋律は単純な音の組合せで、繰り返される。

Dies irae, dies illa solvet saeclum in favilla: teste David cum Sibylla.Quantus tremor est futurus,quando judex est venturus,cuncta stricte discussurus!Tuba mirum spargens sonum per sepulcra regionum,coget omnes ante thronum. Mors stupebit et natura,cum resurget creatura,judicanti responsura.
Liber scriptus proferetur,in quo totum continetur,unde mundus judicetur.
Judex ergo cum sedebit,quidquid latet apparebit:nil inultum remanebit.
Quid sum miser tunc dicturus?Quem patronum rogaturus,cum vix justus sit securus?Rex tremendae majestatis,qui salvandos salvas gratis,salva me fons pietatis.Recordare, Jesu pie,quod sum causa tuae viae:ne me perdas illa die.
Quaerens me, sedisti lassus:redemisti Crucem passus:tantus labor non sit cassus.Juste judex ultionis,donum fac remissionis ante diem rationis.
Ingemisco, tamquam reus:culpa rubet vultus meus:supplicanti parce, Deus.
Qui Mariam absolvisti,et latronem exaudisti,mihi quoque spem dedisti.
Preces meae non sunt dignae:sed tu bonus fac benigne,ne perenni cremer igne.
Inter oves locum praesta,et ab haedis me sequestra,statuens in parte dextra.
Confutatis maledictis,flammis acribus addictis:voca me cum benedictis.
Oro supplex et acclinis,cor contritum quasi cinis:gere curam mei finis.
Lacrimosa dies illa,qua resurget ex favilla judicandus homo reus.
Huic ergo parce, Deus: pie Jesu Domine,dona eis requiem. Amen.

かの日は、怒りの日、この世が灰燼に帰す日、ダビドとシビラの証言の如し。
いかばかり恐ろしきたらんや、審判者が来たり給うて個々のことが厳格に裁かれんとするとき。驚きのラッパは音を鳴り散らし、各地の墓を通してすべての者を玉座の前に集めんとせん。死も自然も驚くなり。被造物がよみがえる時、審判者に答えんとせんがために。書かれた本がさしだされん、そこにすべてが含まれている本が、それによりてこの世が裁かれる本が。よりて審判者が玉座に座し給うとき、何であれ隠されていたことは明らかにされ、そのまま隠されて残るものは何も無し。その時哀れな私は何をば言わんや?如何なる弁護者を頼まんとするや?義人さえほとんど安全ではなきその時に。恐るべき御稜威の王よ、御身は救われるべき者を無償で救われ給う、
憐れみの泉よ、我を救い給え。思い出し給え、憐れみ深きイエズスよ、御身がこの世の生を受けたるは、我がためなることを、かの日に我を滅ぼし給うなかれ。御身は我を探し求めて疲れ座り給い、十字架を堪え忍び、贖い給うた、かくなる苦労が無とならんように。正義なる最後の審判者よ、赦しの賜をなし給え、決算の日の前に
被告として我は嘆き、罪は我が顔を赤らる、天主よ、こいねがう者を容赦し給え。
御身はマリア(マグダレナ)を赦し給い、
盗賊の祈りも聞き入れ給いし、
我にも希望を与え給いき。我が祈りは相応しからず、しかれども優しき御身、大目に取り扱い給え、我が永遠の火に焼かれざらんがために。羊たちの間に場所を与え給い、牡山羊から私を分離し給え、右側に置き給え。呪われし者どもは辱められ、激しい炎が加えられるとも、至福者たちとともに我を呼び給え。我ひれ伏し額づきて願い奉る。灰の如く砕かれた心もて、我が最期を計らい給え。かの涙の日は、灰からよみがえる日、裁かれるべき被告なる人間が。故に、天主よ、この者を容赦し給え、
憐れみ深き主イエズスよ 彼らに安息を与え給え。アーメン。

第1楽章の冒頭にバッハの無伴奏曲の一節をそのまま引用し、一瞬たじろいだイザイは、すぐにその妄想をかき消すように、独自の強く速いテンポの旋律をかき鳴らします。そのバッハの陰影が浮かんでは消し浮かんでは消し、を繰り返終盤はくねくねくねと重音を速いテンポで繰り出し、最後は一息に自分の領域に駆け上がりました。こうした状況は決していい曲には聞こえず、余り聴きたくない不安定が一杯の楽章でした。でも戸田さんは相当な重音技術と表現力でもってこの楽章を駆け抜け次に進んだのでした。

第2楽章、ゆっくりとしたppの旋律を二重音で弾き始めた戸田さんは、「怒り」と言うよりも「憂鬱な」心情をヴァイオリンの音を通じて吐き出している感じで、上記のチャントを引用すれば憐れみの泉よ、我を救い給え。思い出し給え、憐れみ深きイエズスよ、御身がこの世の生を受けたるは、我がためなることを、辺りの気持ちがイザイにはあったのでしょう。矢張りバッハの曲はイザイにとっての重石、重圧だったのでしょう。第3楽章の特徴はpizzicatoが特徴です。戸田さんはピッチカート奏法も堂に入ったもの、安定したリズミカルな音を繰り出していました。最終楽章では、冒頭低音域重音から高音への急変を力一杯に二回演奏した戸田さん、くねくね旋律をppとポンとひとpizzicatoの後強奏で繰り返し、最後はかなりの速い強奏と跳躍音の連続で弾き切りました。

 

(参考)

第1楽章 妄執(Obsession)

ポコ・ヴィヴァーチ、イ短調、3/4拍子。バッハの『パルティータ』ホ短調、前奏曲からの引用が軽やかに奏されるが、"brutalement"(荒々しく)と記されたパッセージですぐに断ち切られる。それが何回か繰り返された後、無窮動的なアルペジオの連続の中から「怒りの日」が浮かび上がる。題名はすなわち、「血と汗を流しながら、巨人に押しつぶされそうな思いで」「脱け出そうとしました」とイザイが語ったバッハへの「妄執」を表わすと解されている。ヴァイオリン書法はバッハの前奏曲に近づけられている。

第2楽章 憂鬱(Malinconia)

ポコ・レント、ホ短調、6/8拍子。楽章を通して

弱音器が付けられ、シチアリーナ風のリズムで二声が自由に歌う。終結部ではドローン

風の低音に乗って『怒りの日』が「自由に」(ad lib.)奏される。

第3楽章 影たちの踊り(Danse des ombres)

サラバンド、レント。ト長調、3/4拍子。長調に和声付けされた「怒りの日」がpizzicato

で奏され、それを主題として6つの変奏

が続く。変奏が進むごとに音符が細かくなっていき、最後に冒頭と同じ形の主題がアルコ(弓奏)で奏される。

第4楽章 復讐の女神たち(Les furies)

アレグロ・フリオーソ、イ短調、2/4拍子。重音を多用した荒々しいフィナーレ。中間部ではスル・ポンティチェロと通常の奏法とを織り交ぜて第1楽章が再現される。

 

③第3番 ニ短調 《バラード》と呼ばれるこのソナタは、ジョルジエ・エネスクに献呈。単一楽章で書かれ、演奏時間は7分前後。6曲の中でも単独で取り上げられる機会が多い曲です。

この曲は、短調主流のやや寂しさを帯びた調べが多いですが、戸田さんは高音域の旋律はとても美しく弾いていました。後半の調も美しく、超スピ-ドの速いくねくね音等も美声で歌うが如く麗しく、速いテンポであっても「バラード」と呼ばれる所以でしょう。この曲になるとイザイ独自の境地を切り開きつつあると思いました。

 今日の演奏会は休憩なしという事で、次の④第4番と⑤第5番、⑥第6番を一気に弾き切ってしまおうという戸田さんの物凄い意気込みをここまででも感じました。

(参考)

ニ短調。レント・モルト・ソステヌート、レチタティーヴォの様式で(In modo di recitativo)、と指示されて全音音階の響きで始まり、半音階的な動きがそれに続く。モルト・モデラート・クアジ・レント、5/4拍子となると重音を中心に扱い、ここでも全音音階の響きが用いられる。

主部はアレグロ・イン・テンポ・ジュスト・エ・コン・ブラヴーラ、3/8拍子。付点リズムが印象的な主題(半音階的な動機によって緩徐部と結び付けられている)が現れ、ロンド風のラプソディックな展開を見せる。途中の細かいパッセージでは四分音符も用いられる。

 
④第4番 ホ短調 フリッツ・クライスラーに献呈。全3楽章で、演奏時間は11分程度。各楽章には舞曲の名前が冠され、パルティータを模しています。

第1楽章冒頭で、太く強い低音の調べからすぐ高音に変化する旋律、そして次のテーマ曲は低音を聞かせた重音演奏で奏でる高音域の旋律の何と美しい響きなのでしょう。ここ一つを取ってみても、この曲以前の①~③では見られないイザイ独自の(技術+音楽性)を確立したソナタ曲と言って良いでしょう。続く弱音の旋律を滔々と鳴らす箇所、繰り返し変奏の重音の響きも含めて、ヴァイオリンの持ち味を十二分に引き出した素晴らしい曲でした。美しいだけでなく「怒りの日」の哀愁を帯びた風情を挟み押し寄せる波の様に何回も繰り返される美の極意は凄すぎる戸田さんの力演があってのことだと思います。 続くpizzaicato による演奏も味が有り、この2楽章の最後は低音域から高音域を弓をうねり横切る動きで重音を発し、最後のpizzi.二た撥じきも淡白な終了表現でした。終楽章の超特急な旋律表現も戸田さん、完璧な指使いと弓捌きで乗り切っていました。流石に演奏者は終了後、軍奮闘結果の汗を拭っていました。

(参考)

第1楽章アルマンド(Allemande)レント・マエストーソ、ホ短調。「アルマンド」と題されてはいるが4/4拍子で書かれているのは即興的な序奏のみで、主部は3/8拍子の荘重なリズムで書かれている。後半の再現では主題の付点リズムが取り除かれ、多声的な厚みが加えられる。

第2楽章 サラバンド(Saraband)

クアジ・レント、ト長調3/4拍子。ピッツィカートで始まる静かな緩徐楽章で、G-Fis-E-Aのおしひ オスティナート

楽章を通して鳴り響き続ける。イザイがクライスラーに宛てた書簡の中では、オスティナート動機を2回繰り返して始めてもよいと記されておりオスカー・シュムスキーによる録音などがこれを採用している。

第3楽章 フィナーレ(Finale)

プレスト・マ・ノン・トロッポ、ホ短調、5/4拍子。第1楽章と第2楽章が回想される中間部を除くと、無窮動的なパッセージが楽章を通じて奏されホ長調の華やかな終結を迎える。

 

⑤第5番 ト長調 マチュー・クリックボーに献呈。2楽章構成で、演奏時間は約10分。2つの楽章にはそれぞれ具体的な題名が付され、音詩に近い性格を持つ。曲の印象から「田園」(Pastoral)という愛称で呼ばれます。

第1楽章は「曙光(L'aurore)」第二楽章は「田舎の踊り(Danse rustique)」と呼ばれる雰囲気を確かに持っていました。

冒頭低音域の調べを超スローに運弓して、同時に空いている左指でポポポーンと弦をはじくpizzi.も高等技術なのでしょう。まるでギターの伴奏が付いている様。

輻輳する重音の音がエコーの様に響き、相当なしつこさでくねくねと上行する重音演奏、駒近くで強い上からの下への運弓による重音の連続が分厚い音圧を掛けて来ます。それにしても戸田さん相変わらずの力を込めた演奏でに没入している感じ。

後半のリズミカルな旋律前後の速い弓捌きと素早い左手pizziによる旋律演奏はかなりの難所なのでしょうけれど、戸田さんは難なく表現、技術的にも相当な高みに達している方だと思いました。

この曲は曲想の美しさよりも工(たくみ)の技をひけらかすにはもってこいの曲ですね。


(参考)

第1楽章レント・アッサイ、とても自由な拍で(Mesure trés libre)。ト長調、4/4拍子。題材の選択やさ、空虚五度や四度の多用からクロード・ドビュッシーに近い響きを持つ。左手のピッツィカートが特徴的。低音域から始まり華やかなアルペッジョによる終結まで徐々に盛り上がっていく。

第2楽章 田舎の踊り(Danse rustique

アレグロ、ジョコーソ・モルト・モデラート、ト長調、5/4拍子。リズミカルな舞曲で、ここでも五度や四度が多用されて素朴な響きを醸し出している。中間部はテンポを落として3/4拍子となり、第1楽章の楽想も顔を出す。主題がふたたび現れると、音価を細かく分割して高揚していく。

 

⑥第6番 ホ長調 

最終曲です。スペインの名ヴァイオリニスト、マヌエル・キロガに献呈。単一楽章で書かれ、演奏時間は7分前後と短いソナタ曲です。

 この曲も相当技巧的でしたが、その上に旋律性も相乗りさせている曲でした。

強い太い低音の強奏音から、強⇒弱への変化が絶妙な戸田さんの演奏、各種のテクニックを駆使して弾いている感がします。確かに『名人の名人による名人のための曲』だなと思いました。

(参考)

アレグロ・ジュスト・ノン・トロッポ・ヴィーヴォ、ホ短調、2/8拍子。6曲のソナタの中でも特に外向的な性格を持つ。複雑なパッセージが多数登場し演奏は難しいが、対位法的な処理はあまり目立たず、ヴィルトゥオーゾ風の屈託のない曲想の中でヴァイオリンの多彩な演奏技巧が華やかに披歴されていく。中間部は嬰ハ短調

となり、スペイン出身のキロガを意識してかハバネラのリズムが現れる。

今日の全曲演奏会を振り返ってみると、イザイはバッハの曲を恐らく生涯の目標としたのではなかろうかと思われます。それをドライヴィング・フォースとしたイザイの独創性の発揮でした。又それを見事に表現したこの日本人ヴァイオリニストには感動しました。いかに大バッハの無伴奏ソナタ曲の山々が天高く聳えているのかの再認識もさせられました。イザイの曲の中では、個人的には③の「バラード」も良かったのですが、④の曲自体もその戸田さんの演奏も、一番良かったと思います。

 演奏後大きな拍手が満員の小ホールを揺るがす嵐の様に鳴り響き、大きなブラボーの掛け声もかかりました。鳴り止まない拍手に舞台裏から戻った戸田さんは、今日は天気の良い花見日和に、聴きに来て頂き感謝しますと言った趣旨の話をし、アンコール演奏を始めました。

《アンコール曲》

J.S.バッハ『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第3番 ホ長調 BWV1006 』より 第3楽章Gavotte en Rondeau

これも良く知られた曲でアンコールには度々演奏されます。戸田さんはイザイの大曲を沢山弾いた影響なのか、アンコールもややその延長上の弾き振りを感じました。比較的じっくりした重いGavotteでした。ヴァイオリニストによっては軽妙に弾く人も多いですが。