久し振りで、横浜山手西洋館のことを思い出し、確か今の時期、花と食器等のテーブルコーディネートの展示会が、結構長い会期(毎年二、三週間だったか?)各西洋館で、行なわれる筈だなと考え、雨も中休みだし、運動不足解消にと、きちんと会期を調べもしないで、出掛けたのでした。
以前のテーブルコーディネート展示の例
処が、横浜駅から最寄りの駅に行き、一番近いベーリックホールに着いて、中に入ってびっくり、各部屋には、テーブル、戸棚、その他の調度品が、整然と鎮座しているだけで、展示は何も無いではないですか。 ❝こりゃまずい、へましたかな? ❞ 係の人に訊くと、もう終わってしまったと言うのです。 ❝去年より早かったのですか? ❞ と訊いたら ❝私達は今年、臨時採用された職員なので、去年のことは、分かりません❞とのことでした。いずれにせよ、他の西洋館でもやっていない事が明らかになったので、急遽、山手にやって来た目的を、西洋館の庭園の花々観賞に切り替え、花を見て、写真をバチバチ撮ることにしました。この時期、基本的には、薔薇と紫陽花が、ほとんどですが、前回来たのは、5/ 31だったので、ほぼ一月以上が経っています。季節は春から将に夏にならんとしているのですから、花事情もかなり変わって来ている筈。薔薇も夏薔薇が咲いて来ているでしょう。でもそうは言ってみても、大きな変化は望めないので、その他の時間は、これまで何年も来ていて、いつも時間がとれなくて、一度も見れなかった『大佛次郎記念館』も見ることにしました。
以下に各西洋館の庭の花壇の写真をアップします。 (一部の館内写真を含む)

































































































【大佛次郎記念館】

大佛次郎は、日本の文学作家・小説家、文豪と言ってもいいでしょう。この記念館は、1973年に大佛次郎が逝去した後、遺族から横浜市に対して、貴重な蔵書や収集品などの遺品が寄贈されたことを契機に、建設計画が始まりました。そして大佛が亡くなってから5年後となる1978年(昭和53年)5月1日に開館しました。
建築家・浦辺鎮太郎によって設計された建物は、青いステンドグラス、白い壁、レンガタイルの赤でフランス国旗の三色を表現しており、1978年度の神奈川県下建築コンクール最優秀賞や第20回BCS賞を受賞しています。
館内には直筆原稿や初版本などを紹介する展示スペースのほか、愛猫家でも知られた大佛次郎の書斎や居室が再現されています。
大佛次郎の半生は、1926年に大阪朝日新聞で、初の新聞小説『照る日くもる日』連載。1927年に東京日日新聞に連載した『赤穂浪士』は、虚無的な剣客堀田隼人という架空の人物の目を通して、元禄時代や執筆当時の世相と体制への批判的な視点を持ち込んだことで画期的なものと言われ、単行本化されて数ヶ月で60版を重ねる人気となった。この『赤穂浪士』で1928年に文芸家協会より渡辺賞を受賞。沢田正二郎により新国劇で上演され、のち多く舞台化された。1931年に連載した『鼠小僧次郎吉』も、講談などで有名なキャラクターに人間性を盛り込んで大衆文学化した嚆矢と言える。
『鞍馬天狗』シリーズなど大衆文学の作者として有名な他、歴史小説、現代小説、ノンフィクション、新作歌舞伎や童話などにまで幅広く手がけた。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。作家の野尻抱影(正英)は兄。
神奈川県横浜市英町(現在の横浜市中区)に生まれ。道成寺の山門の再建や本堂の修復などを手がけた宮大工・仁兵衛の子孫にあたる。父・政助は1850年(嘉永3年)5月27日、紀伊国日高郡藤井村(現在の和歌山県御坊市藤田町)で源兵衛の長男として生まれ、19歳の時に明治維新を経験して「狭いふるさとを出て、広い世界で活躍したい」と、和歌山市の倉田塾(吹上神社の神主・倉田績の家塾)に入り、その後日本郵船に入社し、勤勉実直な人だった。清彦が生まれた時は単身赴任で宮城県石巻支店に勤務しており、その後四日市に移った。『文芸倶楽部』に狂歌を投書して入選するなど文芸趣味の持ち主でもあった。
横浜市立太田尋常小学校に入学後、二人の兄が東京の大学に通うために、数か月で東京に転居し、新宿の津久戸尋常小学校に転校。『少年世界』に「二つの種子」と題する作文を投書し、『少年傑作集』(1908年)に掲載された。1909年に父が定年退職して一緒に住むことになり、芝白金に転居し、白金尋常小学校に転校。東京府立一中時代の1912年に兄正英が言語学者の大島正健の娘と結婚し、その親戚付き合いで伊藤一隆の子供たちなどとも親しくなった。外交官を目指して一中から一高の仏法科に入学した。寄宿寮に入り、野球や水泳に熱中し、歴史と演劇に関心を持っていて、箭内亙に東洋史の教えを受けた。知遇のあった博文館の竹貫佳水が雑誌『中学世界』の主筆になった縁で、1916年に一高の寮生活をルポルタージュ風にまとめた小説「一高ロマンス」を連載して1917年に出版。また校友会雑誌に小説の習作を発表。
父の強い希望で東京帝国大学法学部政治学科に入学。在学中には東大教授吉野作造が右翼団体浪人会と対決した「浪人会事件」で吉野の応援に駆けつけた。また有島武郎のホイットマンの詩を読む「草の葉会」に出席したり、『中央美術』誌に翻訳を寄稿したりした。本代が嵩むのに窮し、兄抱影が編集長となっていた研究社の雑誌『中学生』に、海外の伝奇小説の抄訳や、野球小説の創作を掲載した。仲間と劇団「テアトル・デ・ビジュウ」を結成、畑中蓼坡による民衆座の公演「青い鳥」にも協力・参加し、これに光の精役で出演していた吾妻光(本名・原田酉子)と、1921年2月に学生結婚する。同年にはロマン・ロラン『先駆者』を翻訳して出版、また菅忠雄らと同人誌『潜在』結成。時代小説作家デビュー。
1921年に東京帝国大学を卒業し、菅忠雄の紹介で鎌倉高等女学校(現・鎌倉女学院中学校・高等学校)教師となり国語と歴史を教える。1922年に外務省条約局嘱託となり、翻訳の仕事に就く。外務省に入っていてもその勤務に熱心ではなく、外交官を目指しているわけでもなかったといい、劇作家を目指していた。博文館の鈴木徳太郎の知遇を得て『新趣味』誌にサバチニ、ゴーグら海外の大衆小説の翻訳・翻案小説を書いた。
以上の概要のパネルなどを読んで 展示を見て回ると、通常の大作家風の作品関係展示、作家活動に関わるあらゆる物(書簡、原稿、関連物、写真etc.)の展示、がこの作家の精神的原点が横浜山手に有ることを示唆しています。作家が亡くなった後、蔵書他の遺物、遺品等が、横浜市に寄贈された事にも現われています。
大佛次郎の作品は多いですが、その中に、『霧笛』という初期の作品(1933年)があって、これは、現在で言う横浜山手と元町界隈を背景としている物語なのです。
この小説が朝日新聞に連載されたのが1933年7月〜9月、大佛は、約60年前の幕末〜明治初期(1860年代〜1870年代)の横浜を回顧し、緻密な取材をもとにこの小説を書き上げました。
この物語に出てくる当時の横浜山手界隈は、外人寄留地として所謂治外法権地域であり、日本人の権利は無きに等しく、外国人が幅をきかせていました。この辺りにたむろする日本人は、ヤクザ者やスネに何らかの傷を負う者、日本の当局から追われ身の者が集まって来ていたと推測されます。(法的には、1899年に治外法権や居留地制度そのものは完全に撤廃されました。)
『霧笛』の概要は、極簡単に言って、今で言うハードボイルド小説に近く、
❝居留地に屋敷を構える英国実業家クーパーに雇われている小間使いである主人公千代吉が、いつも自分をこき使う主人のクーパーが、一週間程商用で国内出張している間に羽目を外し、ひょんなことから近隣のヤクザの世界に近づいて、ヤクザ男二人(恐らく中年以上の年)を別々の機会に、殴り合いの末、千代吉の強みである若い力を発揮して、一人は殴り倒し、もう一人には、喧嘩勝ちこそしないまでも、相手に一目置かせる成果を上げ、それをバネに彼らの胡乱臭い女達に接触、その内の一人「お花」という名の、外国居留実業家の愛人・洋妾(らしゃめん)を愛する様になってしまい、お花も千代吉の強さに惹かれて、相思相愛の関係になってしまうのです。 最後の結末は、お花は、何と千代吉の主人クーパーの洋妾(らしゃめん)である事が判明、千代吉にもクーパーにもその事が分かってしまうのです。クーパに銃口をむけられた千代吉は、これ迄に無い位の凄みを利かせた激情で、主人クーパーに反抗して撃退してしまい、又愛するお花をば、逆に銃弾を浴びせて殺してしまう、という、一見あり得ないと思われる結果で了❞となるのでした。しかしこの結末には、法治外にあって威張る外国人達と、反社勢力に対して制裁を加えたいという作家・大佛の気持ち、願望が、強く出ていると思いました。
それはさて置いて、この小説の中には次の様な、現在も使われている地名 が出てきます。これは、物語の終盤で、主人クーパーが、出張から戻って来た場面です。
❝船にいたときよりも桟橋が、桟橋よりも砂利だらけの土のかたい海岸道路が、足で踏んでみて、ほっと心の安まる思いがするのだった。しかし、クーパーが前に立っていた。千代吉に背中を向けて、例のとおり物もいわず、痩せた肩に冷淡らしい空気をつけて、こつ、こつと、靴音を深夜の町の静寂の中に響かせて歩いている。
二人は谷戸坂を登り始めた。遠く船の霧笛の声が崖の暗い、空の高い深夜の静寂の中に聞えた。尾を港の空に長くひいて、淋しい音であった。
クーパーがちょっと立ち止ったのは、千代吉がそのとき感じたのと同じように、もう、かなり沖へ出たはずの先刻の汽船が鳴らしたものと聞いたせいだったろう。笛がやみ、あたりが再び、もとのようにしーんとすると、また、こつこつと靴音をさせて、先に立って歩き続けた。 屋敷はもう近かった。やがて、千代吉が久しぶりで幾分なつかしく見る鉄門の前へ出た。❞
この谷戸坂 は90年以上も経った現在でも残っていて、立派に道標に刻まれています。

この坂を英国人クーパーと使用人千代吉が登ってきて、クーパーの屋敷が見えてきたと書いてあることから推定すると、大佛は、クーパーの屋敷を現在のイギリス館の辺りに考えていたのでは?と思われます。その西洋館の直ぐ隣が、大佛次郎記念館なのですから尚更。
そして、この一節には、如何にもみなと町らしい「霧笛」の音に関する記述が出てきました。この「霧笛」の単語を記念して、大佛亡き後、建立された「大佛次郎記念館」の一部を使用して、残された夫人が、「霧笛」と名付けた喫茶店を開業、現在まで営業しているのです。
「記念館」を見学した後、この喫茶店で何か洋菓子でも買って行こうと思って、喫茶店を覗いたら、テイクアウト出来る菓子は無いとのことでした。しかし、話しによると、この喫茶店より何年か経って、元町に出来た「霧笛楼」というレストラン兼洋菓子店でテイクアウト出来るということだったので、山手から下山し、元町の本通りから一つ山側に入った平行する通りに有る「霧笛楼」に寄り、テイクアウトして、家の上さんのお土産として、気を遣う誰かさんでした。

