今日は『東日本大震災』から丁度15年目の3月11日です。多くの犠牲になられた方々に心からの哀悼の気持ちを捧げたいです。また避難を余儀なくされた方々、又そのご家族、関係者の皆様には大変なご苦労をされたことと存じます。お疲れ様です。
あの日のあの時間には、自分は、都内品川区で仕事をしていました。それ程大きなビルではないのですが、兎に角その揺れようといったら、これまで経験した事が無い程大きな揺れでした。すぐに建物外に避難しようとも思いましたが、少し弱まったので、部屋に留まって様子見をした記憶が有ります。そのビルは、かなり古いのですが、元々某大手生命・損害保険会社が建てた自社ビルだった所なので、地震には強いと以前耳にしたことがあったからです。地震保険を商品の一つとする保険会社の社屋が地震の被害を受けたのでは話にならないので、普通の何倍も頑丈に出来ていると、まことしやかな話を聞いていたのでした。しかし何十秒か経って、再び大きな揺れが来た時には、館内放送に従って、階段を降りて急ぎ外に避難しました。そして多くの人々と同じ様に近くの公園に集結しました。そこから近くの電柱を見るとどれもが、まるで強風に晒された柳の木の様に左右に揺れて動き棚引いて、電線は大きく弧を描き中には切れた線がぶら下がっていました。この二回の大揺れはほぼ横揺れだったので、直感的に震源地は、東京からかなり遠いなと思いました。そうしている内に誰かがどこかで、テレビかラジヲで情報を得たのか、東北地方の東側沿岸の地震らしいということが聞えて来ました。かなりの震度でこれまでに無い程の被害が出ているとも。自分の自宅は横浜なので、建物内に戻ってから備え付けの電話を取ってかけても繋がらず、すぐに混乱時の電話不通の場合、公衆電話が比較的繋がり易いということを思い出し、再度建物外の公衆電話に行ってみると誰も使っていないので、それで家の上さんに電話しました。するとすぐに繋がったのです。上さんの話では、横浜の家もぐらぐら随分揺れたらしい、特に木造家屋ですから、揺れもガタガタ凄かったのでしょう。でも物が少し落ちる程度で目立った被害は無いとのことだったので少し安堵しました。再度建物に戻っても仕事にならないので、館内放送やテレビ、ラジオの情報を聞いたりしていると、暫くして部屋の皆が窓際に集まり出し、外を見始めました。自分も行って見ると、建物の前を走る大きな道路(多分国道)の歩道を多くの人々が、ゾロゾロ歩いているではないですか。勿論車道は、渋滞した車両が数珠つなぎで、殆ど動いていません。歩く人々は、北から南方向の人が圧倒的に多い様に思えました。これはいかん、電車も恐らく止まってしまっているのだろうし、歩く人々に倣って徒歩で帰宅しようとしても、品川区から横浜まで行くには、多摩川と鶴見川の二つの大河川を渡らなければなりません。若し橋が壊れていたらそこから川を渡る手立ては無くなってしまうでしょう。そこで帰宅は諦めることにし、すぐに件の公衆電話に急ぎ、近くの宿を予約しようと考えました。公衆電話の処には今度は四人程が並んでいましたが、少し並んで割りとすぐに電話が使えたので、近くのビジネスホテルに電話しました。どの様にして初めてのホテルの電話番号を調べたのか、どの様にして近くのホテルを探り当てたのかは、今記憶に有りません。何せスマホは現在の様に普及していなく確かガラケーの時代だったと思います。一応仮予約が出来て、すぐに支払いに来て下さいとのことだったので、場所を訊いて、すぐに駆けつけて予約が完了しました。少しホッとしました。その日は仕事どころでなくなっていたので、帰宅出来る者は直ちに帰って良い、帰れそうもない者はそのビル内に泊まるために食料、水、を丁度そのビルの一階にコンビニ(セブン)が有るので買い出しに行ったり、貸し布団の手配を手伝ったりしていました。自分は適当な頃合いを見て、そこを離れホテルに直行しました。勿論素泊まりなので、途中若干の食料を調達しました。ワンルームの狭い部屋でしたが、その後揺れも来なかったので、少なからずホットしました。件の道路沿いのホテルだったので、カーテン越しに外を見たら、ゾロゾロ歩く人がいや増しに多くなっている様に見えました。部屋のテレビをつけると、「東日本大震災」の地域に津波が押し寄せる映像が映されていました。多くの家屋、車、人々等諸々の物を飲み込んでいく大津波、まるでうわばみか大蛇が渦巻く切れた舌をとぐろを巻いて飲み下す様な風景でした。そうしている内に、福島原発の津波被害が大々的に報じられる様になって来ました。
実はその時期以前の数年間は、仕事の関係で、ちょくちょく上野から仙台までの常磐線特急に乗って茨木県、福島県方面によく出張したものでした。出張がてら時間と余裕があれば途中下車して、その地域の名所名跡も見て回りました。水戸の偕楽園も見たし、日立製作所の本拠地、勿来の関跡、湯本温泉、いわき近くの小名浜漁港、浪江や原ノ町の史跡、相馬では野馬追いを見たことも、後は仙台の七夕。仕事もしっかりしましたが、出来るだけ土、日に近い日を選んで出張して、休日を有効に使ったのでした。今思い出すと、海岸沿いに海が見えてくる車窓からの風景は何と美しかったことか。また小高と言う小さい駅は夏になると駅前から一面に広がる田圃の緑が、風に揺られて緑の海原の如く息づいて動く様に感動したり、湯本温泉の微かに緑を帯びた硫黄泉は、那須の湯本温泉の泉質に次ぐお気に入りになったこと、相馬野馬追いで勇壮に丘を駆け上がる「神旗争奪戦」の勇壮さは、鎌倉の「流鏑馬」をも凌駕すると感心した事等々、昨日のことの様に思い出します。と同時に電車の車窓から見る海の水辺が、その線路のすぐ近くまで食い込んでいる箇所を電車が通過した時には、❝海がこんなに近くてしかも標高が低い陸地の箇所を列車が通っていて、大丈夫なのだろうか?(高潮などの)水害は無いのだろうか?❞
と心配になった事もありました。何故なら都内の江東地区などのゼロメートル地帯は、ちょくちょく高潮により浸水するので、その地区は防潮堤が張り巡らされていることを知っていたからです。福島原発には一度も寄ったことが有りませんし、そこに張り巡らされていた筈の防潮堤も見ていませんが、低く過ぎて津波を防げなかったと報道され、裁判にまでなったことは非常に残念な事でした。
この大震災時には、そろそろ自分も現役引退の時期に近づいていたこともあり、出張しなくなっていて、自分の被害は無かったのが幸いでした。
そう言えば、大地震は3月に起き、その数か月前に、品川駅前の映画館で、韓流映画の「津波」と言う映画を見たことも思い出しました。粗筋は覚えていませんが、確かそれ以前にNHKテレビドラマで放送された「チェオクの剣」や「奇皇后」に主演した韓流女優のハ・ジオンが主役だったと思います。その数か月後日本であの様な大津波が起こるとは誰が予想したでしょうか。
「花に嵐」「晴天の霹靂」「禍福は糾える縄の如し」等の言葉を噛みしめる今日この頃です。
