N響第2036回定期公演Aプログラム
【主催者言】
マーラーの《交響曲第3番》は、楽章によって長さも性格も極端に異なり、演奏時間も90分を優に超える破天荒な作品だ。内容面では、《第2番》《第4番》とともに民謡詩集『こどもの不思議な角笛』による歌曲群と有機的に結びついており、自然のうごめく原初の世界は、やがて神の高みを目指す人間の心象風景へと広がる。独唱、児童合唱、女声合唱が加わる大編成の本作。申し分のない聴き応えを堪能していただきたい。
【日時】2025.4.27.(日)14:00〜
【会場】NHKホール
【管弦楽】NHK交響楽団
【指揮】ファビオー・ルイージ
【独唱】オレシア・ペトロヴァ(メゾソプラノ)
<Profile>
力強く濃密な歌唱を聴かせるロシアのメゾ・ソプラノ歌手。レニングラード生まれ。サンクトペテルブルク音楽院卒業。2007年第13回チャイコフスキー国際コンクール声楽部門(女声)第2位。2012年第2回パリ・オペラ座コンクール第1位受賞。2007〜2016年サンクトペテルブルク音楽院オペラ・バレエ劇場のソリスト。2014年メトロポリタン歌劇場に《アンドレア・シェニエ》マデロン役でデビューした。2016年からミハイロフスキー劇場のソリスト。《仮面舞踏会》ウルリカ、《スペードの女王》伯爵夫人、《アイーダ》アムネリスの各役を演じた。これまでベルリン・ドイツ・オペラ、チューリヒ歌劇場、ハンブルク国立歌劇場、マドリード・レアル劇場などに出演。2017年からヴェローナ音楽祭に定期的に招かれる。2018年ボリショイ劇場に《スペードの女王》ポリーナ役でデビュー。2023年ロイヤル・オペラ・ハウスにアムネリス役でデビューした。
コンサートにも多数出演。ファビオ・ルイージ指揮のN響とは2022年9月ヴェルディ《レクイエム》、2023年12月マーラー《一千人の交響曲》に続く共演。2025年N響ヨーロッパ公演でも共演が予定される。今回も陰影に富む歌唱でマーラーの世界を描き出すだろう。
【合唱】東京オペラシンガーズ(女声)
NHK東京児童合唱団
【曲目】マーラー『交響曲第3番ニ短調』
(曲について)
グスタフ・マーラー(1860〜1911)は1891年3月にブダペストのハンガリー王立歌劇場監督を辞したあと、1897年にウィーン宮廷歌劇場に移るまで、ハンブルク市立劇場(現ハンブルク国立歌劇場)の首席楽長の職にあった。指揮活動に加えて劇場運営に忙殺される中、1893年夏の休暇からは風光明媚(めいび)なオーストリアのアッター湖畔シュタインバッハで作曲に没頭するようになる。その環境は彼の創造力を搔(か)き立てた。《交響曲第3番》は《第2番》とともにそこで生まれた大作である。《第2番》が人の死と復活をテーマにしたのに対し、続く《第3番》と《第4番》では生きる喜びが表現されている。ライプツィヒ時代の1887年頃に見つけたドイツ民謡詩集『こどもの不思議な角笛』は、マーラーにピアノ歌曲という実りをもたらしたが、詩から呼び起こされる霊感は大自然を前にしてさらに膨らみ、互いに深く関わるオーケストラ付きの歌曲群と交響曲群へとつながった。
《交響曲第1番》が最初「交響詩」として構想されたとき、文学から刺激を受けて詳細な説明文が付されたように、あるいは《第2番》の第1楽章が《交響詩「葬礼」》として出発したときのように、マーラーは作曲の意図を事細かに言葉で説明する傾向があった。《第3番》でも「従来のありきたりの形式に依(よ)るところはなく、交響曲と呼ぶのにふさわしくない」と語り、音楽のコンセプトをヴァイオリン奏者バウアー・レヒナー、歌手ミルデンブルク、友人で物理学者のベルリーナー、音楽評論家マルシャルク、指揮者ワルターらに何度も書き送っている。それらは幾度となく変転したが、そのどれもが、自然のもとにおける人間の営みを表現している。「常に新しく変化を続ける内容が自ずとその形式を決定する」と表明したマーラーの思い通りに、《交響曲第3番》ではわきあがるイメージが音楽に沿って積み重ねられたのである。
例えば完成間近の段階ではこうだ。第1部「導入 牧神が目覚める」「第1楽章 夏が行進してくる」。第2部「第2楽章 野の花々が私に語ること」「第3楽章 森の動物たちが私に語ること」「第4楽章 人間が私に語ること」「第5楽章 天使が私に語ること」「第6楽章 愛が私に語ること」。当初の構想では第7楽章として「天上の生活」が続いていたが、のちに《第4番》の第4楽章へと移された。ともあれ、マーラーがよく行うように出版の際にすべての標題は取り払われてしまった。音楽的には、非常に長い両端楽章が4つの楽章を包み込む構成をとる。
【演奏の模様】
〇楽器編成:拡大された四管編成弦楽五部16型
〇全六楽章構成
第1楽章〈力強く、決然と〉
ソナタ形式の枠組みをとりながら、多様な主題群が変容を続ける。8本のホルンによる主題で勇壮に始まり、行進曲を核としたスケールの大きな部分と、管楽器・弦楽器の独奏やアンサンブルによる繊細な部分が巨大な構成を織りなしていく。
第2楽章〈テンポ・ディ・メヌエット、とても穏やかに〉
素朴でのどかな野の風景が描かれている。
第3楽章〈コモド・スケルツァンド慌てないで〉
『角笛』の歌曲《夏の交代》が言葉なしで登場する。季節の変わり目でカッコウがナイチンゲールにバトンタッチするという内容。2つのトリオで舞台外から響くポストホルンが悠久の時を感じさせる。
第4楽章〈きわめてゆるやかに、ミステリオーソ、一貫してppp〉
アルト独唱がニーチェの著作『ツァラトゥストラはこう語った』の一節により人間に警告を発する
第5楽章〈活発な速度で、表情は大胆に〉
「ビムバム」と鐘を模した児童合唱に女声合唱が加わり、十戒を犯したペテロがイエスに懺悔(ざんげ)し許される場面が、『角笛』の詩によって歌われる。アッタカで次楽章へ。
第6楽章〈ゆるやかに、平静に、感情をこめて〉が
弦楽合奏で開始。合奏の主題は変奏と展開を続ける。マーラーが「愛の中で頂点に達し、安らぎに満ちた解決を見つける」と語ったように、ニ短調で始まった混沌とした世界は、ニ長調で悠然と締めくくられる。
マーラーのこの3番の交響曲は、背景として宗教的な色彩が相当に濃い曲です。第1番「巨人」も第2番「復活」も然り、キリスト教の要素が色々と曲に組み込まれています。キリスト教徒でない日本人(自分も含めて)がこの曲を、単に音楽の要素からあれこれ論じてみても、それは表層的な理解に留まり、この曲を通してマーラーが訴えたかった真意は組み取れないでしょう。そういう自分とってもこの曲の宗教性の意味合いあいは、曖昧模糊として難しい課題です。
またこの曲の特徴は、(勿論多くの交響曲でそうであるように、弦楽アンサンブルの活躍を抜きには語れませんが)管楽器、就中金管楽器の大活躍は目を見張るものでした。第1楽章の冒頭からHrn.(9)の輝かしい斉奏は、この曲の天にも昇る幸先良い出帆を予想させるものだったし、続くTrmb.⇒Trmp.の低音域の唸り・うねりは、天に対比される人間若しくは、地に這い蹲る魑魅魍魎の存在を妄想させるものでした。その後何回も出て来るHrn.の斉奏のドラマティックな響きは、弦楽奏のこれまた力の漲ったアンサンブルと合わせて相乗効果を高めていました。
ルイージの指揮は、やはり海外演奏会を意識しているのか、感情の籠った相当力の入ったものでしたが、以外と冷徹に管弦楽の響きを見極めて微修正指示を出している様に見受けられました。特に第2楽章の冒頭のOb.ソロは秀越でしたが、それに続く弦楽の弱奏と木管の掛け合いでVn.アンサンブルの細いユニゾーンを、なめらかな腕の振りと手の仕草で、美しい風景の草花がかぐわしい香りを漂わせているような牽引をしていたのは、流石Profumiereルイージ、如何に香り高い調べを調合し匂わせるかに腐心している様子でした。
第2楽章でのバンダのHrn.(ポストホルン)の活躍は、上記した安定した雰囲気が出ているものでしたが、演奏後ルイージはこの奏者を舞台に呼び寄せ、たたえていました。バンダではもう一つ小太鼓の音もしました。
又この3番に限らず他の多くの交響曲でもマーラーは、大きな流れのアンサンブルの中で、突如、不協和的な音を忍び込ませたり、生活感の有る音を混入させています。
NHKラジオ放送に「音の風景」という長寿番組が有りました。今でも40年も続いているらしい。国内及び世界各地のいろいろな場所を、その場所特有の音を中心に、わずかな解説を付して紹介する5分番組で、一度は耳にしたことがあるかも知れません。即ち「サウンドスケープ」です。直近の放送では、アーカイブスということで、ネパールの王宮広場に響く鐘の音や、ふって来た雨の音を流していました。マーラーの交響曲にも、特にこの3番の曲では、オーケストレーションの中に、さりげなく或いは意図的に「音の風景」を溶け込ませています。第2楽章ではオーケストラの調べが妙なるアンサンブルで進行する中に、様々な楽器により鳥の囀りを模擬したり、ロバのいななき、行進する軍楽隊風のラッパの音、荒れ狂う風、遠くの尖塔で吹き鳴らされるラッパの時の音を、バンダでポストホルン奏者が吹いたり、第5楽章では鐘の音を児童合唱に歌わせたり、オーボエやコール・アングレにより牧笛を模したり、マーラー風「音の風景」の連発でした。これが嫌いだという人もいますが、自分はこれが大きなマーラーの交響曲の魅力の一つだと思っています。聴く楽しみに、見る楽しみが増えて、あれ今の音は何処の誰が出しているのかな?と拡大鏡で演奏者の表情まで捕えようと、ピントを合わせするのに忙しいのです。
歌関係は第4楽章と第5楽章ですが、長い第1楽章(約40分)が終わると、合唱団(女声、児童、各々約50,40人)が管弦楽の後ろの雛壇に入場。ソリストのペトロヴァは、2楽章が終わって3楽章に入る前に、舞台最前列に入場しました。合唱団は、どの公演でも良く鍛錬された団員が歌って感銘を与えますが、今回も同様でした。ただ女声と児童ですから男声の深いハーマーニーも欲しい気もしましたが、合唱団の歌う歌詞の宗教的意味合いから、この曲では男声が入りません。ソリストのペトロヴァは第4楽章の「O Mensch! Gib Acht!」以下は、弱音のメッゾで、抑制的だが伸びやかな声で歌いました。第5楽章での合唱との掛け合いでは、次第に声を大きくして、合唱団に飲み込まれない力強さも見せていた。
最終6楽章では、「アッタカで」という楽譜指示ですが、ルイージは前楽章に続けてではなく、一呼吸置いて割りとすぐに、静謐な低音域の弦楽奏を鳴らしていました。Vc.ソロ音を立てていた辻本さんは、これまで室内楽(ひばり弦楽奏団)で何回も聴いていて、いつも漆原姉妹の迫力ある調べに負けず劣らずの大きな演奏をしていたのですが、この大ホールでのソロ演奏は、若干音が小さく聞こえました。会場のせいかな?
この楽章は第1楽章の次に長い楽章です。マーラーの宗教的境地は、彼の記した標題や他の記述から考えると、恐らく、4楽章の歌で「ツァラストラ斯く語りき」からの歌詞という難解な歌でしたが、自分流に解釈すると、深い夜の闇、深い悲しみetc.よりもさらに深いのは悦び、そしてその永遠性であることに心して気が付くことが大切、そして第5楽章では、ペテロの罪を許したキリスト、「ひたすら神に祈ること」をペテロの天国入りのために求めたキリスト、この楽章では至福の境地にマーラーは達していたのでしょう。従って最終の第6楽章では長々と安らぎのメロディに満ちた管弦楽の調べは一見退屈そうですが、至福の時が永遠に続くことをマーラーは願い、曲として表したかったに違い無いと思いました。