【日時】2025.4.6.14:00~
【会場】ミューザ川崎シンフォニーホール
【管弦楽】東京交響楽団
【指揮】ジョナサン・ノット
【曲目】ブルックナー『交響曲第8番(第1稿ノヴァーク版)』
(曲について)
交響曲第8番ハ短調は、ブルックナーの作曲した10曲目の交響曲。演奏時間が80分(CD1枚分)を越えることもある長大な曲で、後期ロマン派音楽の代表作の一つに挙げられる。ブルックナーはこの交響曲以降、ベートーヴェンの交響曲第9番と同様の第2楽章にスケルツォ、第3楽章に緩徐楽章を置く楽章配置を採用する様になる。
【演奏の模様】
今日は一曲だけの演奏会、休憩なしです。会場はブルックナー演奏会のいつもの様に、ミューザは、満席と思われる程上から下までギッシリ入っていました。チケットは売り切れのよう。舞台には、椅子が沢山並んでいました。
楽器編成:Fl.(3) Ob.(3) Cl.(3) Fg. (3) Hrn. (4+4) Trmp. (3) Trmb. (3) Con−Tub. Timp. Symb. Tri. Hrp.(3)三菅編成 弦楽五部16型対抗配置(16-16-14-8-8)プログラム記載の正団員を補充した客演者がかなりいた様です。
- 3番Fg.は第1・4楽章でCon−Fg.に持ち替え。
- 5~8番Hrn.は第1・3・4楽章でWag- Tub.に持ち替
- え、TenorとBassを各2本使用。
- 終了後確認した処、Wag- Tub.奏者がHrn.に持替え
- た時、最大Hrn.奏者数は9人だったそうです。
Hrn.(4 )+W.T.(4)+補助者(1)=Hrn.(9)
なお第1稿では、第3楽章までは2管編成で書かれ、第4楽章で初めて3管編成となるのですが、休憩なしなので、実際の演奏者はその都度調整して演奏した模様。その他、3番Fl.が第3・4楽章ではPicc.に持ち替え。
この曲でもブルックナーらしく、管楽器が多用され大活躍でした。即ち
第1楽章の主題はファゴット、第3・第4楽章ではホルン、トロンボーン、ヴィオラ、コントラバス、バス・チューバが、第2楽章の主題はフルート・クラリネット・第1トランペット、第3楽章の主題はヴァイオリンと第1・第2ホルンが、そして第4楽章の主題要素は第1楽章のものと織り合わされて、全曲が力強く締めくくられます。
また今回は、第1稿のノヴァーク版で演奏され、多く演奏されてきている第2稿とはちらほら違いが有る様なので、調べてみると、
現在では「第1稿」、「第2稿初版(シャルク版)」、「第2稿ハース版」、「第2稿ノヴァーク版」の4つの印刷譜が存在しています(厳密には、第3楽章にだけは経過的な稿も存在しますが、それはまだ出版されていないので無視です)。「シャルク版」に関しては、過去のものとなりつつあるので、残り三つのそれぞれの小節数を比較してみると以下の通りです。
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即ち第1稿の方が長くなっているので、同じテンポで演奏すれば当然1割位時間が余計かかる筈です。2稿が70分であれば1稿は80分位、2稿が80分であれば90分位といった風に。
今回演奏前に事務局に訊いたら、演奏時間は80分台だと言っていました。少し速いペースが予想されました。
因みに過去のルイージの第1稿1887年版の演奏時間は、 2022年8月19日 ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団グラフェネッグ(オーストリア)録音によれば、以下の通りでした。
第1楽章(00:00)約16分 第2楽章(15:58)約16分21秒 第3楽章(32:19)28分43秒 第4楽章(01:01:2-終01:24:40)約23分38秒。計約85分
しかし同じ版でもルイージはフィルハーモニアチューリッヒの時(10年前)だと90分を越えて演奏、特に第三楽章が長いのです。従って仮に同じ指揮者、同じ管弦楽団が同じ版を演奏しても、その時々の様々な要因で、演奏時間は異なって来る可能性が有り、ましてその演奏の中身は変わって来ることは当たり前のことかも知れません。これが生演奏であれば、将に「一期一会」の演奏との出会いが演奏会に行く醍醐味の一つなのでしょう。
しかも今回は、第1稿の1887年版でなく、ノヴァーク版、その違いは何でしょう。詳細は両者の総譜を細部に渡って比較検討しないと分かりませんが、AIに訊いてみると、「1887年版もノヴァーク改訂版も小節数やメロディラインに違いは無いが、オーケストレーションや表情記号の細かい部分に違いがあります」と出ました。こうした細やかな差と指揮者の牽引指導の違いで、聴いた時の印象がかなり変わって来ることは有るでしょう。
さて前講釈はこの位にして実際の今回のノット・東響の演奏についてです。
舞台を見ると、Vn.対向配置で上手側に多くのVn.+Va.奏者とHp.三台とが並んでいるのが目に付きました。下手奥にはCb.部隊がかたまっていて目立ちます。奥の左手にはHrn.(4)は同じですが、そのそばにW.T.が4人の奏者を構えています。指揮者ジョナサン・ノットは颯爽と現れ台に飛び乗ると、颯爽とタクトを振り始めました。
そもそも、一般に普及してきた第2稿との違いの概略は端的に何なのでしょう。残念ながら両者の楽譜の総譜が手元に無く比較出来ないので、仕方なくその違いをAIで検索すると、以下の様に出て来ました。
【第1楽章】
初稿では「死」の雰囲気が濃く、ワーグナーの死による衝撃がうかがえる
【第2楽章】
初稿ではAllegro moderato、第2稿ではLangsamとテンポが異なり、初稿の方が切迫感がある
トリオが書き換えられている
【第3楽章】
初稿ではクライマックスが長大で、音楽の方向性があいまいになる
第2稿ではすんなり頂点に達するため理解しやすい
【第4楽章】
第2稿では終わり方が謎であった
ブルックナーの曲はアンサンブル特に金管の分厚い響きの推移が静かに流れる場合が多く、単旋律の単純な調べは、ここの第1楽章でも、例えば、351小節から始まる弦楽のpizzicato奏の上に、Hrnが奏でるターラーララ、ターラーララという単純なパッセッジに気が付きますが、これもすぐに巨大な金管群の下行音の響きに代わり、萎えてしまい長続きしません。最後は404小節目からこれも巨大な全管が鳴り響く中、ジャジャーン、ジャジャーン、ジャジャジャーンと豪壮な響きで終わるのでした。これがこの1稿の大きな特徴の一つです。
第2楽章では、最初からVa.の速いアンサンブルによりジャッジャカジャジャ、ジャッジャカジャジャと突き走りますが、すぐにもやもや感の有る音の展開に変わり、長続きしません。この長続きしない点がブルックナーの曲展開の特徴の一つと思われ、強奏が続いたかと思うと、すぐに静まったり、静かな調べもせいぜい数分と持たず、すぐ激しく燃えあがったり、テンポが速まったり、まるでワーグナーがライトモチーフの短い素材を作り置き、それらを巧みに組み合わせて長い曲を作ったりするのに、やや似た作曲手法かも知れません。以前、ブルックナーの交響曲で、短くないゲネラル・パウゼを多用して、それが一つ一つのパーツを組立てて曲が成り立っている様に思われ、「モザイク画の様」と例えたことが有りましたが、もっと細かい素材を繰り返し使って組み立てている側面が今回も感じられました。例えば第2楽章の中後半、97小節からOb.が美しい単旋律を奏でそれをFl.が引き継ぎますが長続きせず、次のスケルツォに移って行くのです。スケルツオでは、リズムは同じでタラツタラタラ、タラタツラタラ、タラツタラタラ、タラタツラタラ、と演奏しながら同じ様な素材を繰り返し繰り返し使い、以前の他の番号の交響曲の時でも書いた様に一種の「ミニマル音楽」の様な際限なく続くと幻想させる繰り返しの素材が使われています。現代のミニマル音楽が何故繰り返しを多用するかと言うと、「同じ音が何回も何回も耳に入って来ると心地良くなる」から、と言う説をどこかで見たことが有ります。このスケルツオでは期の素材がFl.やらOb.やらCl.やら手を変え品を変え繰り返され、最後は弦楽器群の同テーマの繰り返しで終止しました。
第3楽章は一番長く、最後コンマスのゆったりした調べで終わったのが、15:12頃でしたから、ここまで一時間ちょっとかかった訳で、第1稿としては順調な指揮進行だったと思います。ジョナサン・ノットは、身も軽やかに体も使って腕をタコの手さながらにクネクネと柔軟に動かし、疲れも見せず指揮していました。
初盤の弦楽奏が滔々と上行する調べを流すと、Hrp.三台が上行旋律に合わせてポロンポロンポロンとマロヤカな音を上行させ、この辺りは優雅の極わまりと言えるでしょう。
管楽器と共に高音域の調べの強奏をゆっくりと進める弦楽器、突如弦楽アンサンブルは低音域のずっしりとした調べに転じ、暫くすると又Hrp.の雅びが再現されたのです。それにしても弦楽奏がゆっくりと上行する際、単純に進むのでなく、変奏(フラット)音を交えながら進むのは、洒落ています。ブルックナーのセンスの良さが感じられました。シンバルは確かに指定通り鳴らされました。終盤でのHrn.と1Vnアンサンブルのゆったりとした流れの掛け合いは、ほのぼのとしてとても良かった。コンマスのテーマ奏が目だって聞こえましたが音はそれ程大きくなく、逆に言うと1Vn.アンサンブルの調べに強さが無いためと思われ、これはそ以前でも感じたことですが、N響や都響のVnアンサンブルの様な素晴らしさは無かったと思います。考えるにこの原因は、対向配置も関係したのではないかという事です。多くの場合1vn.と2Vn.とは舞台下手の前後に陣取っていることが多く、その場合、両Vn.部門の合計が16型だと30人近くの人数のヴァイオリンが塊となって斉奏なり重奏なり行うので、そこから発散する音波は塊となって大きく強く観客席に届きますが、今回は分散配置で1Vn.の周りはCb.やVc.の低音弦に囲まれていて、孤軍奮闘だったせいもあるかも知れません。最後はほとんどコンマスの音で、ゆっくりとした終焉を向かえるのでした。
最終楽章は、弦楽奏の速いテンポの囃し立てる様なジャンジャンジャンジャンジャンという調べで開始、すぐに全金管群が豪壮なファンファーレを鳴り響かせました。これぞブルックナーの醍醐味、細かい不揃いなぞ気にならない大きな音を立て、前身又前進。映画だったらここで何千人の敵対する戦士達の軍勢がぶつかり合い、戦闘を開始するのでしょう。
しかしこの素材もすぐ終了、続いて滔々と流れる弦楽奏には、何故かチャイコフスキーの味わいを感じました。続くBas-Tub.の合いの手、Pizzicato奏、Ob.の合いの手、そして又Ten.-Tub、Bas-Tub.の調べ、これ等は、通常のHrn.(4)奏者とは別の四人を、Hrn.と掛け持ちさせたものです。Hrn.とも違った深い音でいい感じ。その後のFg.の調べは、第1楽章でも聞いたもの。148小節からのVn.の調べは、何か民族調の素朴なものでした。ここではそれまでの楽章を総括している模様。
最後の全楽全奏は、これぞブルックナー!、玉屋!鍵屋!と叫びたくなる程の(聴覚の)一大パノラマでした。オーケストラ演奏でも、会場の照明を使うならば、実際の音、アンサンブルに合わせた、多重色彩の視覚パノラマが造り出せるのでは?