ここ数日は随分暖かい日が続き、横浜では、今日(3/2 )は、20℃を超えました。これまで、咲きあぐねていた梅もやっと開き、いい香りを漂わせています。
昨日(3/1土曜)は、風もなく晴れ渡り、暫く振りの最高なお出掛け日よりになったので、横浜市内の雛人形の展示で、過去に行ったことのない処を見に行きました。
市内3カ所で、ひな飾りが見れるという「横浜ひなめぐり」というポスターを見たので、行くことに。①横浜人形の家②三渓園内古民家 ③横浜根岸旧柳下邸巡りです。丁度この日、古い職場の仲間から三渓園へのハイキングのお誘いもあったので、それへの参加がてらとも考えたのですが、最初に直接三渓園に行くと、他の二か所のひな人形を見に行くルートが、行きつ戻りつ時間が無駄にかかってしまうので、①~③の順にしました。上手く行けば②でハイキングに合流できるかも知れないと考えて。
①の「人形の家」は山下公園の近くにあります。
園内を通ったら、大道芸人が火のついた松明を何本も、お手玉宜しく投げ受けて、多くの観客の喝采を浴びていました。
多くの人出で賑わう公園、子供連れやカップルが多く、中には外国人の姿も見られました。
かっての連絡船氷川丸、今は展示物としていつも岸壁に係留されています。
港の沖合にはベイブリッジや風力発電の大きな羽根も見えます。公園は風がほとんどないのに羽根が回っている。風が強い場所を選んで設置されているのでしょう。(でも昨今は日本の洋上発電は、かなりの困難性にぶつかっている模様)
港のパノラマ写真です。
園内には大噴水も、また園外にはマリーンタワーの姿も。高さは無いですが、横浜っ子には愛着がある様です。
公園対面の老舗のホテル、内部にレストランがあり、相当な時間待たないと順番が来ないので、入ったのは過去に数回だけです。
その隣に目的の場所が有りました。
①人形の家
様々な人形が大から小間で展示されていましたが、ひな人形展示は思っていたより小規模にしか飾ってありませんでした。
続いて近くのバス停からバスに乗って、次の目標地へ向かうことに。鉄道も有りますが、駅までかなりの距離が有ります。
②三渓園
横浜三渓園の由来は、実業家・原三渓の号である「三渓」と、三つの渓谷があったことに由来しています。
【由来】
原三渓は、明治末期から大正期にかけて生糸貿易で財を成した実業家で、茶人でもありました。
原三渓は、自邸の庭園を公開することで、地域の人々に安らぎと癒しを提供していました。
三渓園の土地は、原三渓の養祖父・原善三郎が明治の初めに購入しました。
三渓園は、1906年(明治39年)に原三渓によって一般公開されました。
三渓園の名称は、原三渓の号である「三渓」に由来しています。
三渓園は、2006年11月17日に国の名勝に指定されました。
【三渓園の特徴】
三渓園は、約17万5,000平方メートルと東京ドーム4個分に相当する広大な敷地に、17棟の日本建築が配置されています。
三渓園には、室町時代から安土桃山時代の寺院建築や古民家、茶室などの古い建造物が数多く配置されています。
三渓園は、古建築と自然が調和した姿を楽しむことができます。雛人形展示は、エントランスからかなり遠く奥まった古民家内にあるそうです。
入園チケット売り場に並ぶ人々。天気が良いだけに多くの人々が詰めかけていました。
三渓園に着いたのは、昼過ぎになってしまいました。ハイキングの仲間達は、何処かなと思って幹事に電話した処、とっくに三渓園を後にして電車に乗り、東京方面のカラオケ店に向かっているとのことでした。今回の参加者は、東京、千葉に住む者が多かった様です。その幹事は、自分が若かりし頃、職場に新入職員として入ってきた後輩ですが、二三年前に定年になったらしい。30〜40年も経ってしまいました。それだけ月日が経つのは速いのですね。ハイキングにはまたその内参加出来る時があるでしょう。
園内に入るとが大きな池が目に入ります。
対岸には大きな屋敷の群れが見えました。
水鳥達は、水面や岸辺にあがって、陽向たぼっこしている様子。兎に角風も無く陽は暖かく将に春到来といった感がします。
白梅が満開近く咲いていました。
数少ないですが紅梅も咲いている。
お雛様は飛騨高山の合掌造りの古民家を移設したという古民家内に有りました。
玄関の中の対面には大八車や昔の農作業用具らしき物が置いてありました。
大きな臼と杵もありました。
これは機織り道具か糸紡ぎの道具かな?
広い座敷には囲炉裏と鉄瓶が。
昔祝いの時使った酒樽か醤油樽か。
別の部屋には、古い日本古来の箪笥も置いてあります。
二階は非公開ですが、階段が有ります。
別な部屋にも階段が。
これは先程とは違う部屋の囲炉裏端。実際に木が燃されてけむが出ています。訊いたところ、合掌造りの屋根を支える上部構造が腐らない様に、煙を立てていぶしているのだそうです。
奥まった部屋に雛人形は飾ってありました。
この家屋に附している人形のみ飾っている様です。何年か前に、横浜の他地区の雛飾りを見に行っていますが、これまで見た豪華で派手な沢山の展示ではなく、古民家自体の歴史を思い起こさせる質素な展示でした。それよりも多くの古道具や古風な部屋自体を見れて為になりました。
上の写真は何か分からない道具の様なので質問したら、「平臼(ひらうす)」という臼の一種だそうです。
急ぎ三渓園を出て、バス停へ。別なバス路線で根岸駅まで行きました。
③根岸柳下邸
旧柳下邸(きゅう やぎした てい)の建物は明治~大正期の有力商人であった柳下氏により大正中頃に建設されました。大正12(1923)年の関東大震災では一部倒壊したものの、大部分は損失を免れ、その後、戦争など激動の昭和史の中を、柳下家の人々により大切に守り受け継がれてきました。横浜市では平成8(1996)年に敷地を取得し建物の寄附を受けて、できる限り創建当時の姿に復元し「根岸なつかし公園 旧柳下邸」として一般公開されています。
平成14年11月には横浜市指定有形文化財として指定されました。
ここのひな人形展示も慎ましいものでした。
三か所の展示場に行ってみましたが、総じて思っていたより展示されていたひな人形は少なく、最初のパンフレットに書かれていた「横浜ひなめぐり」とは程遠い、少し失望する結果となりました。しかし、それを補って余りあるのは、いい天気で絶好の行楽日和だったことです。これまでの寒い冬が嘘の様に暖かい日で、彼方此方に春を先取りする花木が見れたこと。大規模な庭園の春を満喫出来た事でした。
最近読んだ中に次の文の記載が有りました。
❝たいてい都の近辺はどこもみな庭園で、百里のうちに荒れ地とてない。つぎつぎと春の装いが野に満ち、うららかな春日和となれば、万花は争って白塗りの塀から顔を出し、細柳は斜かいに花やかな道を蔽う。香木の車は暖かに廻り、芳草は茵の如く、駿馬は高らかに嘶き、杏花は縮のよう。鶯は花咲ける木に啼き、燕は晴れわたる空に舞う。紅装の美女は宝榭層楼に楽をしらべ、白面の青年は画橋流木のほとりを唱い歩く。いずこを見てもぶらんこ遊びのさんざめき、いずこへ行くも好き気ままな試割の遊び。花を訪ね名所を選べば、花びらは時に金の酒樽に落ち、翠を手折り証を物にすれば、蜂蝶は帰りゆく騎馬に暗かに願う。そこで直ぐ清明節がやって来る。❞
ここで言う「都」は、「東京」を指します。但し日本の首都ではありません。今を遡る事九百年前、都の大繁栄と人々の活発な生き様を、今に伝える北宋の首都「東京開封府(とうけいかいほうふ)」のことです。中国の歴史でも、長安や洛陽にも勝るとも劣らぬ繁栄を謳歌した都でした。上記引用は、王朝史の文献は数多く残っていても、庶民の生活の文献は数少ない中国史の中で、貴重な異彩を放つ『東京夢華録(とうけいむかろく)』(孟 元老 1147年 著)の一節でした。ここで言う「清明節」は二十四節気にも入っていて、旧歴三月七日(新暦四月四日)頃のことです。
清明の時期の行事は、中国のみならず沖縄でも実施されていて、「シーミー」と呼ばれ、二十四節気「清明」の期間に行うお祭り的なところがほとんどです。目的は中国と同じで、ご先祖様の供養の意味もあります。