東京ユヴェントス・フィルハーモニー第27回定期演奏会
【日時】2025.1.4(土) 18:30〜
【会場】ミューザ川崎シンフォニーホール
【管弦楽】東京ユヴェントス・フィルハーモニ
<Profile>
大学生、若い社会人を中心に結成されたアマチュアオーケストラ。音楽監督は坂入健司郎。世界初演・日本初演を多数手がけ、故イェルク・デームス氏や舘野泉氏など名だたる演奏家をソリストに迎えるなど独自の演奏会を企画し、各方面から好評を博している。
2015年よりベートーヴェン交響曲チクルスを開始。CDを『altus』よりリリース。
【指揮】坂入健司郎
〈Profile〉
指揮法を井上道義、小林研一郎、三河正典、山本七雄に師事し、チェロを望月直哉に師事。
2008年、慶應義塾ユースオーケストラを結成。
2014年、より広く文化活動に貢献することを願い、慶應義塾ユースオーケストラを「東京ユヴェントス・フィルハーモニー」に変更。
2015年、マーラー交響曲第2番「復活」を指揮し好評を得たことから、かわさき産業親善大使に就任。同年MOSTLY CLASSIC誌「注目の気鋭指揮者」にも推挙される。
2018年、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団に初客演し「カルミナ・ブラーナ」を指揮し、成功を収める。マレーシア国立芸術文化遺産大学の客演など海外での活動も行う。
2020年、日本コロムビアの新レーベルOpus Oneよりシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」をリリース。
2021年、愛知室内オーケストラへ客演、ブルックナー交響曲第3番を指揮し名古屋デビュー。同年、名古屋フィルハーモニー交響楽団に初客演し、ロシア・プログラムを指揮し脚光を浴びる。
2022年、日本フィルハーモニー交響楽団へ客演し、サントリーホールデビューを果たす。
【独奏】ヴァイオリン:若尾圭良
<Profile>
2022年《第32回》新人賞:若尾 圭良
青山音楽賞歴代受賞者
2022年《第32回》新人賞:若尾 圭良
2006年、ボストン生まれ。2021年ユーディ・メニューイン国際ヴァイオリンコンクールジュニア部門優勝、併せて委嘱作品の優れた演奏に対し、作曲家賞を受賞。2021年スタルバーグ国際弦楽器コンクール優勝、併せてバッハ賞受賞。
3歳よりヴァイオリンを始め、6歳より元ボストン響コンサートマスター、 故ジョセフ・シルバースタイン氏に師事する。現在、マサチューセッツ州ウォールナットヒル芸術高校2年生。ニューイングランド音楽院プレップスクールにてドナルド・ワイラーシュタイン、スーヴィン・キムの各教授に、日本では竹澤恭子氏に師事し、研鑽を積んでいる。
9歳でオーケストラと協奏曲を初共演。これまでにユージーン響、レディング響、カラマズー響、チャタヌーガ響、リサウンドコレクティブ、アデルフィー、ニューイングランドフィル、ボストンシヴィック、ウォルサム、ニューフィル、岐阜大垣室内管などと共演。 ニューヨーク・カーネギー(ヴェイル)ホール、ボストン・ジョーダンホール、ロンドン・カドガンホール、シンガポール・ヴィクトリアコンサートホール、北九州・響ホールなど著名なコンサートホールでも公演を果たす。
2017年、11歳でTEDx ボストンにて、スピーチと演奏を披露。12歳の夏より毎年、NY州イツァーク・パールマン音楽プログラムに参加し、ジュリアード音楽院、名教授陣の指導を受ける。2020年14歳で、ボストン・リディーマー教会と東京・代官山ヒルサイドプラザホールの2箇所で初リサイタルを催し、好評を博した。
2023年は、ボルティモア室内管(メリーランド州)、レキシントン響(マサチューセッツ州)でのデビュー、ボストン・シヴィック響との再演など全米各地でオーケストラとの協奏曲共演が続き、ニューヨークやロンドンなど各地でのリサイタル、ヨーロッパでの音楽祭参加も決定している。
使用楽器は1745年製G.B. ガダニーニ(フローリアン・レオンハルト・フェローシップより貸与)。
【曲⽬】
①バルトーク:中国の不思議な役人
(曲について)
バルトークが作曲した、脚本家レンジェル・メニヘールトの書いた台本に基づく1幕のパントマイムのための舞台音楽である。
ハンガリー出身の舞踏家アウレル・フォン・ミロス(ハンガリー語版)(1906年5月12日 - 1988年9月21日)の振付でバレエとして演奏されて以来、現在でもバレエとして上演されることもあることからバレエ音楽と混同されることもある。ただし作曲者はミロスの提案をOKしたものの、自身では「音楽を伴うパントマイム」だと強くこだわり、総譜にも記載するように念を押している。
音楽的にはストラヴィンスキーの『ペトルーシュカ』や『春の祭典』の影響も見え隠れする(バルトークは『春の祭典』のピアノ版を同作の初演直後に取り寄せ、研究していた)。ただし台本に合わせ、キャラクターの心情を表現する音楽が意識されており、また情景描写という意味でもライトモティーフ的な動機を多用するなど工夫が凝らされている。また、この曲のオーケストレーション前に完成・初演していた『舞踏組曲』とオーケストラ書法には共通点が多数ある。
変拍子が多く、テンポの変化も極めて多彩なので指揮科のレッスンには良く使われる曲でもある。
②バーバー:ヴァイオリン協奏曲
(曲について)
サミュエル・バーバーが1939年に完成させた協奏曲。独奏楽器と管弦楽のために書かれた3つある協奏曲の中で、最初の作品である。また、初期作品でありながらも、調性の扱いについて旧作よりも進歩的な発想が現れており、成熟期の作風を方向付けた作品としても重要である。
バーバーは、1939年にフィラデルフィアの産業資本家サミュエル・フェルズから、カーティス音楽院を1934年に卒業した自分の養子アイソ・ブリゼッリのためにヴァイオリン協奏曲を作曲するように依嘱され、前払い金を受け取るとスイスに行って作曲に着手した。第1楽章と第2楽章をブリゼッリに送ると、ブリゼッリは満足感を表し、叙情的な作品を褒め称えた。調性は発展的であるが長調で始まり短調で終わる構成となっている(この構成は調性が機能しているメンデルスゾーンのイタリア交響曲とブラームスのピアノ三重奏曲第1番 に他の例を認めることができる。)。それから1年遅れでバーバーは、華やかな無窮動の第3楽章を届けると、ブリゼッリは試してみたものの、自分にはとても歯が立たないと悟った。この終楽章は協奏曲には邪魔であるとブリゼッリは伝えた。この無窮動が、質においても内実においても先行する2つの楽章には不似合いであると仄めかして、終楽章をより大規模な、より洗練されたものにしてもらおうとバーバーを説得しようとしたのであったが、バーバーはこれを断わった。今度はフェルズが、前払い金を返せと要求してきた。バーバーは、協奏曲の作曲のためのスイス行きでその金は使ってしまったと答えている。バーバーとブリゼッリはその後も友人同士であり続けたが、2人の友情に関する評価は多くが矛盾するものである。結局ブリゼッリは、本作の初演を行なわなかったのであるが、後に非公開の場では演奏した。
当時カーティス音楽院のピアノ科教員であったラルフ・バーコウィッツが、ヴァイオリン科の若い学生ハーバート・ボーメルと知り合いになった。ボーメルは初見演奏に長けていることで知られており、バーコウィッツはボーメルに、数時間でこの協奏曲の終楽章に目を通し、ピアニストのヨーゼフ・ホフマンの練習所で顔合わせをするように頼んだ。ボーメルは譜面を精読してホフマンの練習所に行くと、見物人に(当時カーティス音楽院の教師になっていた)バーバー本人や、ジャン・カルロ・メノッティ、音楽院創立者のメアリー・ルイーズ・カーティス=ボックが揃っていた。
③ストラヴィンスキー:春の祭典
(曲について)
ロシアの作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーが、セルゲイ・ディアギレフが率いるバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)のために作曲したバレエ音楽。オリジナルの振り付けはヴァーツラフ・ニジンスキーが、舞台デザインと衣装はニコライ・リョーリフが担当した。1913年5月29日にシャンゼリゼ劇場で初演され、音楽と振り付けの前衛的な性質がセンセーションを巻き起こした。初演の聴衆の反応は長年「暴動」と呼ばれることが多かったが、近年は誇張表現だったとして見直されている。この表現は10年以上後の1924年の後の公演のレビューまで現れず[1]、負傷者が出たり、物が壊されたりしたことはなかった[2]。また二日目以降のパリ公演や、二ヶ月後のロンドン公演でも特別なことは起こらなかった[3]。しかし、後世の作曲家に和声法、ポリリズムなどの面で大きな影響を与え、20世紀の管弦楽を象徴する作品のひとつしての評価は変わらず持っている。
【演奏の模様】
①バルトーク:中国の不思議な役人(組曲版)
楽器編成:フルート3(第2、第3奏者ピッコロ持ち替え)、オーボエ3(第3奏者コーラングレ1持ち替え)、クラリネット3(B♭・A管およびE♭管。第3奏者はバスクラリネット(B♭管)持ち替え)、ファゴット3(第3奏者コントラファゴット持ち替え)、ホルン4(第2、第4奏者はワーグナー・チューバ持ち替え)、トランペット3、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、小太鼓、テナードラム、大太鼓、シンバル、トライアングル、タムタム、シロフォン、チェレスタ、ハープ、ピアノ、オルガン、弦五部、混声四部合唱。
※打楽器奏者は6人必要。また組曲版では、ワーグナーチューバと混声合唱が出てくるシーンがなくなったため省かれている。
2Vn.アンサンブルでスタートを切り、タラララタラララ タラララタラララと単調なリズムと旋律を繰り返すうちに、金管がププーププ-と警笛を鳴らし相変わらず弦楽は単調アンサンブルを繰り返していました。目を瞑ると、まるで巨大機関車がズンズン大車輪を回して直進している様な感覚に陥ります。ピアノの音が軽快に繰り返し音を発すると、Timp.がダダダダーンと速打、弦楽は今度はVa.アンサンブルで低いドラマ性の強い調べを奏でました。管弦楽にピアノまで登場させるところがバルトークらしい。もともとピアニストなのですから。更なる弦楽奏による車輪回転推進に依り列車は進む?この辺りまで坂入・ユベントスは、かなりの喧騒状態の混沌とした音の塊がぶつかり合っている様相で、オーケストラの整理・統合がまだまだ十分でないのかも知れない。
の間列車は大陸平原を横断する勢いでズンズン進みます。バルトークの国(ハンガリ-)は西アジア系の血も混じっている民族とか。ハンガリ平原をかけ抜けて突如列車はスピードを落としました。あたかも麗しい水辺に動物たちが息うオアシスに辿り着いたかの如く。潤いのある弦楽高音アンサンブルが場を和ませました。この辺りからCl.のソロ音が活躍、度々Vc.やスネアやPf.などとの掛け合い、そして独奏などで活躍、音もかなり良いものでした。実際の付随音楽としての意味合いは、もっとグロテスクなストーリーが当て嵌められていますが、そうした陰湿感よりも、オケの皆さんの若いエネルギー発散による、むしろカラッとした表現になっていたと思いました。
②バーバー:ヴァイオリン協奏曲
○全三楽章構成
第1章Allegro (アレグロ).ト長調
第2楽章Andante (アンダンテ).ホ長調(嬰ハ短調が支配的)
第3楽章Presto in moto perpetuo (無窮動による).
登場したソリストは、思っていたよりもしっかりとした堂々としていて落ち着いた少女でした。米国生まれ米国育ちの日本人。音楽演奏者の家庭で、恐らく音楽を空気の様に吸って生きて来たのでしょう。幼くして才能を発揮、更にその芽を伸ばしつつある様です。三楽章構成のこの曲では、第一楽章こそ、ウォームアップの気配が残りましたが、第ニ楽章に入って本領発揮、滔々と美しい旋律をゆっくりと繰り出していました。この曲では、第3楽章の猛烈な勢いの調べ以外は、第1楽章Allegroであっても、緩やかな綺麗な調べを指し挟んでいるし、逆に第2楽章のAndanteの美しい滔々とした旋律は、間もなく速いパッセッジにかわり、この楽章でさえ、緩ー急ー緩の変化の中にバーバーの見事な差配が見られるのでした。それにしても第ニ楽章の冒頭のOb.ソロ音も心に響くしっとりとしたもの。あの調べを聞いては、次に入るソリストも自ずから素晴らしい音が引き出されるといったものかも知れません。このOb.とVn.の組み合わせは、図らずもバーバーの曲終了後のソリストアンコールで、再現されることになります。
若尾さんは、技術的にもかなり高度なものを身に付けていて、第2楽章前半の重音演奏でも美しい高音を出していたし、重音のうねりも良し、続く低音部の重なる音のバランスがとても良く聞こえました。
二楽章終盤、連綿と続くソロVn.の調べに、Hrn.が合いの手を入れ、弦楽アンサンブルに金管群が合いの手を入れて引き継ぐ調べに、ソロVn.が速いパッセッジで再稼働、若尾さんの太く深々した低音域演奏が魅力的でした。
続く第三楽章では、ソリストは、弓に力を籠めて速いテンポの刻み奏を連射、聞いていても痛快で面白いのですから。いわんや、調べをくり出す人をや?その速奏に喰らい付くユベントスフィルの面々、坂入さんのコントロールが効いているのか、ソリストの演奏がオケに隠れたり、音がかき消されたりすることは、この楽章ばかりでなく、一楽章とニ楽章の速いテンボの箇所でもありませんでした。そう言う意味では、両者は車軸(坂入さんの部分か)の両輪の様に上手く廻っていたと思います。
演奏が終わって大きな拍手の中、再三登壇した若尾さんに、中年男性が、楽団員の中から、何やら管楽器を手に指揮台の前に登場すると、左手袖からは、チェロを抱えた男性奏者が、一人登壇、指揮台の奥のVc.群の空き椅子に座りました。アンコール演奏が始まる模様。後で分かったことですが、Ob.奏者は、ソリストのお父様若尾圭介氏だったのです。しかも圭介氏は、あのネルソンズ率いるボストン交響楽団の首席Ob.奏者の様でした(旨い筈です)。
《アンコ-ル演奏曲》J.S.バッハ『オーボエとヴァイオリンのための協奏曲ハ短調BWV.1060』から第二楽章
これが又素晴らしい演奏でした。特にOb.の調べは、音質は勿論の事、非常に起伏に富んだ味わい深い音色で、いつも国内オケのOb.奏者の演奏を聴くと、うまいなと思うのですが、それをはるかに超えたレヴェルの演奏でした。Vn.演奏は勿論これ以上ない相方との共演ですから、バーバーの時よりもさらにグレードアップした圭良さんの演奏でした。バッハにこの様な曲が有るのは今回初めて知りました。バッハは奥が深いですね。
③ストラヴィンスキー:春の祭典
休憩後ホールに戻ってみると、壇上には溢れるばかりの椅子、一部の楽器達が置いてありました。
場合によっては100人を超す大編成で演奏されることも有ります。
この曲は、時々演奏会の演目にかかることが有りますが、本来はバレエのための曲なのです。一昨年、新国立劇場で、バレエならぬモダンダンスで上演されたのを見たことが有ります。参考までその時の記録を文末に抜粋再掲して置きます。
さて今回のユヴェントスフィルの演奏は、各セクションにかなりのベテランと思われる奏者もいたのですが、大半は若いまだ大学生か卒業したてと思しき奏者も多い様で、その奏でる演奏は、『春の祭典』は曲も曲だけに、迫力この上無い大音響を立てていました。しかし弦も管も打も力の限り自己主張する余り、各部門の混合度が最適だったかと言うと、必ずしもそうでは無かった様に思います。あれだけの大編成が轟音を立てる時、どのパートがどれだけコントロールされて奏者個々の演奏がどの様に溶け合っていたかは、非常に分かり難いものです。100人の奏者が100人とも揃った技術レヴェルにあれば別ですが、相当のキャリアの差がある構成員の混合楽団と見ました。こうした場合は『春の祭典』の様な曲は、一見力の限り演奏したという満足感は味わえるかも知れませんが、聴衆には、聴くに堪えない場合だって出て来るでしょう。余り適切な選曲とは言い難いのです。将来とも楽団の演奏技術向上のためには、今回の①、③の曲よりも、もっともっとオーソドックスな、所謂名曲選を練習して聴衆に披露した方が。どこが良くて何処が悪かったかが明確となり、さらなる向上のための礎えとなるに違い有りません。
個別演奏では、Cl.のソロが大活躍、渋くていい演奏が多かったと思います。また若尾圭介氏でない、女性首席Ob.奏者もいい音をたてていました。Vn.首席、Vc首席他第一奏者は流石の演奏が多かった。Timp.他打楽器奏者も奮闘。
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2022/2023シーズン新国立劇場バレエ団
《春の祭典:The Rite of Spring》
令和4年度(第77回)文化庁芸術祭協賛公演
【公演期間】2022年11月25日[金]~11月27日[日]
【開演時刻】
2022年11月25日(金) 19:00
2022年11月26日(土) 14:00
2022年11月27日(日) 14:00
【予定上演時間】
約1時間20分(第1部『半獣神の午後』20分 休憩20分 第2部『春の祭典』40分)
〇Introductionはじめに[主催者]
名作ダンスと、意欲的新作の二本立て
新国立劇場で生まれたオリジナル・ダンス作品として、高い評価を受け再演を重ねる傑作『春の祭典』。この大切なレパートリーを新国立劇場バレエ団ダンサーが引き継ぎ上演し、さらに男性ダンサーたちが活躍する新作『半獣神の午後』を併演いたします。
【鑑賞日時】2022.11.25.(金)19:00~
【会 場】新国立劇場 中劇場
《スタッフ》
②『春の祭典』
【演出・振付・美術原案】平山素子
【共同振付】柳本雅寛
【音楽】イーゴリ・ストラヴィンスキー
【照明デザイン】小笠原 純
【美術作品協力】渡辺晃一(作品《On An Earth》より)
①『半獣神の午後』
【演出・振付】平山素子
【音楽】クロード・ドビュッシー、笠松泰洋
【照明デザイン】森 規幸
【照明】森 規幸
【音響】河田康雄
【音楽監修】笠松泰洋
【衣裳】堂本教子
【出演者】
②『春の祭典』
米沢 唯、福岡雄大(25日、27日)
池田理沙子、中川 賢(ゲストダンサー)(26日)後藤 泉、松木詩奈(Pf.)
・米沢唯
〈Profile〉
愛知県出身。塚本洋子バレエスタジオで学ぶ。2006年に渡米しサンノゼバレエ団に入団。10年にソリストとして新国立劇場バレエ団に入団した。ビントレー『パゴダの王子』で初主役を務め、『白鳥の湖』『くるみ割り人形』『ドン·キホーテ』『ジゼル』『火の鳥』『不思議の国のアリス』ほか数々の作品で主役を踊っている。13年プリンシパルに昇格。04年全国舞踊コンクールジュニアの部第1位、04年ヴァルナ国際バレエコンクールジュニア部門第1位、05年世界バレエ&モダンダンスコンクール第3位、06年ジャクソン国際バレエコンクールシニア部門銅賞など国内外のコンクールでの受賞歴も多い。14年中川鋭之助賞、17年芸術選奨文部科学大臣新人賞、18年舞踊批評家協会新人賞、19年愛知県芸術文化選奨文化賞、20年芸術選奨文部科学大臣賞、橘秋子賞優秀賞、22年服部智恵子賞受賞
・福岡雄大
〈Profile〉
大阪府出身。ケイ·バレエスタジオで矢上香織、久留美、恵子に師事。2003年文化庁在外研修員としてチューリッヒ·ジュニアバレエ団に入団、ソリストとして活躍。05年チューリッヒ·バレエ団にドゥミソリストとして入団し、07年まで所属。2000年NBA全国バレエコンクール·コンテンポラリー部門第1位、03年こうべ全国洋舞コンクール·バレエ男性シニアの部第1位、08年ヴァルナ国際バレエコンクールシニア男性部門第3位、09年ソウル国際舞踊コンクール· クラシック部門シニア男性の部優勝などがある。09年新国立劇場バレエ団にソリストとして入団。『ドン·キホーテ』『白鳥の湖』『くるみ割り人形』『火の鳥』、バランシン『アポロ』、ビントレー『パゴダの王子』、ウィールドン『不思議の国のアリス』ほか数々の作品で主役を踊っている。12年プリンシパルに昇格。11年中川鋭之助賞、13年舞踊批評家協会新人賞、18年芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。
①『半獣神の午後』
奥村康祐、中島瑞生(25日, 27日)/渡邊峻郁、木下嘉人(26日)
福田圭吾(全日)
宇賀大将、小野寺 雄、福田紘也
石山 蓮、太田寛仁、小川尚宏、上中佑樹、菊岡優舞、樋口 響、山田悠貴、渡邊拓朗、渡部義紀
奥村康祐
中島瑞生
渡邊峻郁
木下嘉人
福田圭吾
〇プログラムについて(主催者)
②『春の祭典』(2008年「古楽とストラヴィンスキー」にて初演)
【演出・美術原案】平山素子
【振付】平山素子、柳本雅寛
日本でのニジンスキー振付復元版で〈いけにえの乙女〉を演じた平山素子が、2008年新国立劇場の制作により、デュエットという根源的な手法でストラヴィンスキーの難曲に挑み、オリジナルの『春の祭典』を柳本雅寛と共に創り上げました。今回は新国立劇場バレエ団のダンサーたちがこの名作を踊ります。 2人のピアニストがストラヴィンスキー自身によるピアノ連弾版を演奏し、徐々に高揚してゆくラストシーンは観客を感動の渦へと巻き込んで行きます。
①『半獣神の午後』(新国立劇場バレエ団委嘱・初演)
【振付】平山素子
【音楽】音源:クロード・ドビュッシー、笠松泰洋
男性ダンサーのみの群舞作品。ドビュッシーの官能的な調べに現代に生きる身体の野性が交錯し、人間の本質的な尊厳が露わになります。皮膜が柔らかく溶け合い徐々に浮かび上がる、超越した肉体美の世界に迫る作品です。
【上演の模様】
この劇場は初めて入りました。いつもオペラの時は玄関を入って売店、チケット売り場を通り過ぎ、階段を上ってすぐに左折してから又階段(十段くらいかな?)を登るのですが、今日の中劇場は、入ってから相当真直ぐ進むと階段の上に中劇場一階のロビーが有りました。二階の座席なので階段を上って二階へ。二階正面の席で、舞台は良く見渡せました。
先ず①のドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』のFl.の調べが響く中、男性ダンサー13人が舞台上で待機、次に6人づつ縦二列に整列して立っている。残りの一人は一人で舞台を左右に自由に歩き又は滑り、この人は牧神を意味するのでしょうか?
十数人は組体操まがいに集合したり、上に乗ったり、そして再度整列の動きがあり、最後列の一人が抜け出し、先の一人と組んで踊っている。そうしている内に列は崩れ歩く人、飛び上がる人、背面では膝まずく人、両腕を上方に開き伸ばし、あたかも祈っているが如しの人とか種々様々な動きをして踊っています。
この様に、立ったり座ったり寝転んだり踊ったりと、かなりエネルギッシュに音楽に合わせ踊っていました。
この曲には、1910年代にニジンスキーが振り付けリュス・バレエ団が演じた「半獣神の午後」が有りますが、かなり性的表現があって当時論議の的となったみたいですが、今回はそうした露骨な表現は全然感じませんでした。
ここで《20分の休憩》です。
開演後まだ30分しか経っていないのに休憩ですって?次の演目を休憩なしで続けることも出来たでしょうに。この休憩なしの方式は、最近のN響などのオーケストラ演奏会に行くとよくあるケースです。トイレの後ホワイエに行ったら、長い行列が出来ていました。あ~そおか!休憩にしたのはこれなのか!ドリンクバーが、再開したのです。休憩時だけ開くバーカウンターです。オペラなどは休憩が二三回の時もありますから。兼業OKの昨今、まずは商魂たくましくしましょう、でしょうか?劇場には急いでやって来たので、何も食べていませんでした。並びました。割と速く進み、見ると食べものは、パン様の物しか売ってなくて、しかもそれも完売で無いとのこと。そこで短時間の休憩で、少しでも腹を膨らませるには、ビールしか無いと考え注文しました。途中寝てしまわなければいいけどと思いつつ飲みました。大変美味しかった。
休憩後は、②「春の祭典」です。この曲の演奏は、」意外と多くの楽団で演奏される機会が多い曲です。先月来日公演した、マケラ指揮『パリ管弦楽団』でも演奏されていました。参考までその時の記録を文末に再掲して置きます。
今回は、オーケストラではなく、二台のピアノ伴奏で、米沢さんと福岡さんが二人で踊るそうです。この二人は新国立劇場バレエ団のプリンシパルで、これまで何回もバレエを踊るのを見ています。今回はバレエでなく、コンテンポラリーダンスに近いものではなかろうかと思います。
確かに40分もの踊りを見ていると、いつものバレエを踊るのとはまったく異なる舞いで、寝転んだり、起きたリ、男子が持ち上げたり抱えたり転がしたり、自分でくるくる回ったり、足上げ、手上げ、両腕上げ、あらゆる動作、運動が自在に組み込まれて、ダンサーは機械仕掛けの人形の様に休みなく踊りまくるのは、とてもきつく大変な踊りだなと感じました。年を取ったダンサーでは踊れないかも知れません。
米沢さんと福岡さんは相当馬力と筋力とスタミナと忍耐力のある人だなと感心したというか非常に驚きました。売れっ子バレエダンサーの別の側面が見られ、目からうろこの公演でした。
ただ、音楽とダンスの表現との関係や意味付けが明確にされないと、見ている一般観衆は何をやっているのか理解に苦しむかも知れません。バレエの様に一つ一つの踊りの型を説明し、その組み合わせの関係や、それを組み合させたダンスの意味付け(物語性)を明確化した解説が重要になって来ると思いました。
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2022-10-15マケラ『パリ管弦楽団』藝術劇場演奏会を聴く
【日時】2022.10.15.(土)16:00~
【会場】東京藝術劇場
【曲目】
①ドビュッシー/交響詩《海》
(曲について)
《割愛》
②ラヴェル『ボレロ』
(曲について)
《割愛》
③ストラヴィンスキー/バレエ音楽「春の祭典」
1910年、ストラヴィンスキーは、ペテルブルクで『火の鳥』の仕上げを行っていた際に見た幻影(“輪になって座った長老たちが死ぬまで踊る若い娘を見守る異教の儀式”)から新しいバレエを着想し、美術家ニコライ・レーリヒに協力を求めた。
『火の鳥』の成功後、バレエ・リュスのための新しい音楽を注文されたストラヴィンスキーがこのアイデアを披露したところ、ディアギレフやレオン・バクストもこのテーマに興味を示し、ディアギレフの手帳には、1911年度の上演予定作品として『牧神の午後』と『生贄(『春の祭典』)』が併記された。
ところが、同年9月末にローザンヌのストラヴィンスキーを訪問したディアギレフは、そこで聞いた作曲途中の『ペトルーシュカ』を気に入り、これを発展させてバレエにすることにしたため、『春の祭典』は一時棚上げとなった。
1911年6月に『ペトルーシュカ』が上演された後、『春の祭典』の創作が本格的に開始された。ロシアに帰国していたストラヴィンスキーはレーリヒを訪ねて具体的な筋書きを決定し、レーリヒはロシア美術のパトロンであったテーニシェヴァ公爵夫人のコレクションから古い衣裳を借り受けてデザインの参考にした。同じ頃に「春のきざし」から始められた作曲は[、同年冬、スイスのクレーランスで集中的に作曲が進められた結果、1912年1月にはオーケストレーションを除き曲が完成した。ストラヴィンスキーはこの年の春に演目として上演されることを希望したが、ディアギレフはこれを翌年に延期するとともに、大規模な管弦楽のための作品にするよう要望した。その後、モントルーでオーケストレーションが進められ、1913年に完成した
【演奏の模様】
①ドビュッシー/交響詩《海》
《割愛》
②ラヴェル『ボレロ』
《割愛》
③ストラヴィンスキー/バレエ音楽「春の祭典」
ストラビンスキーは、もともと、ロシアの没落貴族の家に生まれ、ロシアの大学を出てロシアで活躍した、作曲家、ピアニストでした。バレエ・リュスのセルゲイ・デアギレフの依頼で、バレエ音楽もいろいろ作り活躍していましたが、それが第一次世界大戦とロシア革命の影響によりロシアにもどれず、仕事上も収入も思う様にいかず困窮を極めることに。その時、援助の手を差し伸ばしたのが、パリ・ファション界の寵児ココ・シャネルでした。シャネルが音楽家のストラビンスキーとの接点もあったことは有名な話しで、言葉はわるいですが、一種の「援助交際」かも知れない。しかも、ストラビンスキー一人でなく、その妻も含む一家を援助したのでした。シャネルは、1920年に有名なバレエ団リュスの団長からストラビンスキーを紹介され、彼の一家がソ連から亡命して住居を探していると聞くと、パリ郊外の自分の新居に、新たな住居が見つかるまでの約8か月住まわせた。さらにシャネルは、ストラビンスキーの新作バレエ音楽『春の祭典』をバレエ団リュスが公演して赤字を出すと、それを資金援助し損失を補填するなど音楽事業にも大きな貢献をしていたのでした。現在のシャネル社もその伝統を受け継いでいます。シャネル銀座では、毎月「シャネルピグマリオン・コンサート」を実施して若い有能な音楽家を支える活動を実施しているようです。
さて演奏の方は、下記に従って進行しましたが、この③の演奏の前に休憩があり、その時飲んだ一杯のシャンパンがいけなかった。カフェバーが久しぶりに再開したそうなので、試してみたのですが、それが、丁度効いてきたのか居眠りをかいてしまったのです。気が付いたら二部で、木管が不協和音的旋律を奏でている最中でした。そのあとは、Fg.が盛んに活躍して、間もなくチンチ~ンとトライアングルが背景音を出して、Fl.が鳴って終了となりました。それにしても Fl.奏者、うまかったなー!
「春の祭典」は滅多にバレエ演目にかからないので、ネットで調べて映像を見ました。なかなか集団踊りが音楽にピッタリの振り付けで、躍る様子が面白くて何回も声を出して笑いながらみていました。パリのシャンゼリゼ劇場の公演だったと思います。
___________________ 記 _____________________________
第1部大地の礼賛
序奏リトアニア民謡 "Tu mano seserėle(私の妹よ)" をベースにしたファゴットの非常に高音域のイ調独奏で始まる(C2)。古典的な楽器法に精通したサン=サーンスが酷評したこの部分は演奏が大変困難であり、田村和紀夫はドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』冒頭のフルート独奏と共に、楽器の得意でない音域を敢えて使用するという作曲家の意思を読み取っている。既に変拍子の幕開けとなり、様々な管楽器が異なる調性で全く違うニュアンスのメロディーを激しく演奏する。高潮しきった所で曲は途絶え、ファゴットが再び最初の旋律を嬰ト調で演奏する。ブーレーズは論文『ストラヴィンスキーは生きている』において「最も異様、かつ興味深い語法」と評した。
春のきざし(乙女達の踊り)ホ長調主和音(E, G♯, B)と変イ長調属和音第1転回形(G, B♭, D♭, E♭)が複調で弦楽器を中心に同時に力強く鳴らされる同じ和音の連続とアクセントの変化による音楽。この和音構成は平均律上の異名同音で捉えると変イ短調和声短音階(A♭, B♭, C♭, D♭, E♭, F♭, G)と同じであるが、初めて聴くものには強烈な不協和音の印象を与える。また木管楽器によって対旋律として現れる(E, G, C, E, G, E, C, G)というスタッカートのアルペジオはハ長調を示し、これによって五度圏上で正三角形を成し長三度ずつの移調関係にあるハ長調、ホ長調、変イ長調が結ばれる。これはベートーヴェンの後期三大ピアノソナタ(あるいはもっと前の『ヴァルトシュタイン・ソナタ』や『ハンマークラヴィーアソナタ』なども)においても転調の過程で順次提示されるように既に援用が見られる調関係だが、同時に鳴らすのは音楽史上この曲が初めてであろう。
誘拐
春の輪舞
敵の部族の遊戯
長老の行進
長老の大地への口づけ極めて短い。激しい不協和音が弦楽器のフラジオレットで奏される。
大地の踊り音楽は絶頂の中、終結句を伴わず突然終止する。
第2部生け贄の儀式
乙女の神秘的な踊り
選ばれし生贄への賛美
祖先の召還
祖先の儀式
生贄の踊り(選ばれし生贄の乙女)最も難曲かつ作曲学上システマティックに書かれた部分。5/8, 7/8などの変拍子が組み合わされて徹底的に複雑なリズムのポリフォニーを作り上げる。オリヴィエ・メシアンはこの部分を「ペルソナージュ・リトミック(リズムの登場人物)」[、ピエール・ブーレーズは「リズムの細胞」と、クラウス・フーバーは「リズムのクラスター」と呼んでそれぞれ分析結果を発表している。メシアンによればこの曲は、複雑な変拍子の中でそれぞれ提示されたリズム動機について、拡大する動機、縮小する動機、発展せず静的な動機の3つの類型のリズムから成り立つという
《参考》
ストラヴィンスキーの《春の祭典》の初演は、1913年5月29日、パリのシャンゼリゼ劇場でディアギレフ率いるバレエ・リュスによって初演された。このバレエは、有名な暴動を引き起こした。ストラヴィンスキーの前衛的な楽譜とニジンスキーの振付けに観客は激怒し、多くの人々が「まるで狂人の仕業のようだ」と考えた。
ストラヴィンスキーは、ディアギレフに誘われてバレエ・リュスのための作品を書いたときまだ、無名の若手作曲家であった。《春の祭典》は、《火の鳥》(1910年)、《ペトルーシュカ》(1911年)に続く、ストラヴィンスキーのバレエ・リュスのための第3のプロジェクトであった。
ストラヴィンスキーは《火の鳥》を作曲していた1910年には《春の祭典》のアイディアを思いついていたが、《ペトルーシュカ》を作曲するために1年間これを保留し、1911年の夏に《春の祭典》の作曲に没頭したのである。
ストラヴィンスキーがインスピレーションを得たのは、やはりロシアの民間伝承であった。春の到来を祝うさまざまな原始的な儀式の後、少女がいけにえとして選ばれ、死ぬまで踊り続けるのである。《春の祭典》の前衛的な楽譜は、音楽的にはあらゆる規則に反するものであった。
楽譜には、調性、拍子、解決せず緊張し続ける和声、そして不協和音(通常の和声の意味をなさない音の組み合わせ)の実験など、当時としては斬新な要素が多く含まれている。冒頭でファゴットが奏するリトアニア民謡「私の妹」の旋律からすでに楽器の音域的に厳しい(高すぎる)音が意図的に使用され、音楽はまったく前例のない方法でリズム的に複雑になっている。
さらに深いところでは、人間の感情を表現するという、多くの人にとって音楽の意味を与えているものを否定しているのだ。ストラヴィンスキーの言葉を借りれば、「《春の祭典》には、心の中を見つめる領域がない」ということになる。
1961年、イーゴリ・ストラヴィンスキーは、「《Le Sacre Du Printemps(春の祭典)》では、何のシステムにも導かれなかった」と書いている。「私には耳だけが頼りで、聞いたことを書いた。私は《春の祭典》を通過させた器にすぎない」という。
《春の祭典》の初演で、ニジンスキーの振付けは観客にとって本当に衝撃的だったようだ。彼らの足取りの重いステップは、伝統的で優雅なバレエとはかけ離れていた。
初演から1年後、パリで演奏会用の作品として初演されたとき、ストラヴィンスキーはファンに肩車されて大喝采を浴びたという。《春の祭典》は舞台用に作られた作品ではあるが、コンサートホールでより大きな影響を与えたというのが、多数の解説者による意見である。
《春の祭典》は、1913年の初演時にはスキャンダルを引き起こしたが、現在では20世紀の最も影響力のある音楽作品のひとつとして広く知られている。伝統的な作曲法による秩序立ったハーモニーや心地よい響きを大胆に否定したモダニズムの代表作となったのだ。レナード・バーンスタインは《春の祭典》を「20世紀で最も重要な音楽」と表現している。