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年末年始読書(Ⅲ)藤原翔太著『ナポレオン時代の国家と社会』(第一部)

 1789年、バスチィーユ監獄の襲撃を象徴とするフランス大革命の勃発後、幾多の党派の血で血を洗う下克上の混乱の中登場したナポレオンは、瞬く間に混乱・騒乱を武力で鎮圧し、あれよあれよと言う間に統領から新帝国王位につき、ナポレオン1世を襲名したことは、フランス人民にとって、良いに付け悪しきに付け、大きな政治的転換点となったのでした。

 このナポレオンの統治とは、一体いかなるものであったかを描いたのがこの本です。しかもパリの中央政治状況から一歩離れ、「国境=辺境」たるピレネー地方を一例として、国家・名望家・民衆の三者が織りなす諸関係を克明に描き出しているのが本書の一大特徴です。ナポレオン時代に形成された、地方統治体制の実態とその歴史的意義を解き明かしたのでした。謂わばナポレオン帝政を支えたフランス地方都市の構造に、詳細なデータに基づく科学的な分析のメスを入れた力作だと言って良いでしょう。

 この著作は、本と言うよりかなり専門性を帯びた論文と言った方が当を得ており、400頁弱にも及ぶ大作なので、先ずその内の第一部(第一章~第三章)について、その概要、感想等を記することにします。

※第一部構成

 〇第一章 県知事行政と名望家社会

 〇第二章 県会と地域代表制

 〇第三章 市町村会と地方自治

 

 第一部に入る前に藤原は、序章として、何故この様な研究を行ったか、その動機を次の様に書いています。

<ナポレオン中央集権の再検討>

 1815年6月23日、ナポレオンは二度目の退位に追い込まれ、フランス第一帝政は終わりを告げた。しかし その後、ナポレオンに対する人々の関心はむしろ高まるばかりであった。ナポレオンの英雄伝を列挙する膨大な伝 記が書かれた一方、ナポレオンの「独裁者」としてのイメージもまた構築された。ナポレオン時代の歴史は長らく、 ナポレオンを中心に描かれることになる。

 これに対し「ナポレオン体制そのものが、実証的な歴史研究の対象として取り上げられたのは、一九世紀末のことであるが、歴史家の関心はもっぱら、この時代に形成されたという中央集権的な行政システムに向けられた。しか し、それはオラール(Aulard)の言葉を引用するならば、「唯一人のために絶対的中央集権を設立する」ものでしかなく、、ルフェーブル(Lefebvre)もまた、ナポレオンによる中央集権的な行政再編が彼の「独裁」への大きな一歩であったと主張している。実際、フランス革命研究者が革命のプロセスにおいてまず注目したのは、ジャコ バン独裁に至るまでの革命前期であり、逆に、総裁政府やナポレオン体制は革命の反動体制にすぎないとして、重 視されてこなかった。たとえば、オラールは、フランス革命による市民の政治参加の歴史的意義を強く主張した一 方で、ナポレオン時代を「1789年の諸原理の発展が阻まれ、止められた時期であり、すなわち全体的な反動の 時期」であると一蹴している。こうして、ナポレオン体制すなわち「独裁体制」という評価が確立したのである。

 しかし、ここ30年の間に、ナポレオン時代に関する幾つか重要な研究が現れ、この時代の社会と政治の歴史、 とりわけ同時代の「フランス人」に関する歴史が刷新されつつある。ナポレオン時代の社会の実態に迫る実証研究 が進められ、少なくとも、この時代における諸変化の要因がナポレオンの意志だけに還元されることはもはやなく なった。このような近年のナポレオン時代に対する関心の高まりは、国民国家の形成プロセスに注目して歴史 研究が取り組まれるようになったことと密接な関係がある。国民国家の形成におけるナポレオン時代の歴史的重要性は明らかで、たとえば、官僚制、徴兵制、警察、教育等、現在でもフランス国家を支え続ける諸制度の多くが創 設されたのは、まさにこの時代のことであった。ナポレオン時代は、フランスで如何に国民国家が形成されたか、国民統合を前にフランス人は如何なる反応を示したか、というような国民国家形成の初期段階の諸問題を検討する うえで恰好の時期として認められる。本書では、近年のナポレオン時代の社会と政治に関する諸研究の成果を吸収しつつ、改めてナポレオン時代に形成された中央集権的な行政システムの再検討を試みたい。

 という大きな動機があったのです。

最初に行政システムの基本的構造を定めたのは、1800年に制定された「雨月二十八法」であり、詳細は割愛しますが、同法により県、群、小都、市町村が、地方行政の枠組みとされたのです。同時に、各々に県知事、郡長、市町村長が置かれました。

 著者は、19世紀前半のフランスを特徴付ける地方統治体制が如何に形成され、機能したかを論じています。

 結論的に言えば、オート・ピレネー県における新たに創設された、県知事行政を支える県上級公務員の多くは、県外出身で、革命期に十分な行政経験をつんだ名望家であった。これに対し、県知事は、県外出身者であった。

 県外出身者である県知事や事務総長は、地方統治を効果的におこなうために、在地の名望家に頼らなければなら なかった。彼らは農業協会のような組織のなかで、名望家と個人的な関係を構築することができた。確かに、オー ト・ピレネー県農業文芸協会は自治的な組織を目指したが、その目的の一つは県内における国家政策の普及であっ た。そのため、ほぼ全ての県上級公務員が農業協会の会員になった。結局、県上級公務員と名望家のネットワーク は、このような地方協会を通じて結ばれることができたのである。そのうえ、名望家には、協会で論じられた新た な知識を農村部に普及する尖兵としての役割が期待された。

実際、県統計年鑑の記述からも明らかなように、ナポレオン時代には、教養ある階層と無知の階層、すなわち名 望家層と民衆層を明確に分かつ二元的知覚が支配的であった。そのなかで、名望家には、「世論を指導し、習俗を 変化させ、公共精神を形成する」役割が期待された。県上級公務員と名望家、より正確には県名望家層(中名望家) 以上の名望家は、共通の文化的・社会的世界に帰属する人々であった。むろん、彼らは各々の立場に基づいて行動 した。「よそ者」の「学者」であるラブリニエール事務総長は、県統計年鑑の記述をめぐり、県知事と名望家の協 力関係に対峙することになった。県の名望家社会への配慮が欠けていたことで、ラブリニエールは県内での立場を 弱めたのである。

 県上級公務員にくわえて、県知事行政の基礎をなしたのが市町村長である。市町村長の社会経済的性格はコミュー の重要性に応じて明確に異なっていた。名望家層の財産レヴェルで区別すると、人口5000人以上の都市であ タルブ市とバニェール市の市長は、一般に第二段階下層、助役は第三段階中層に位置した。小郡庁所在地の市町村長もまた第三段階上層に位置づけられる。小郡集会議長も同じ階層に位置した。これに対して、一般コミューン の市町村長と助役はそれぞれ第四段階下層と第五段階上層にすぎなかった。そのうえ、小郡庁所在地の市町村長の 多くは県名望家層であり、革命期に県・郡レヴェルの行政職を経験したことのある有能な人物であった。したがっ て、彼らは県上級公務員と同等の存在であった。逆に、一般コミューンの市町村長は農村共同体の自律的な秩序の なかに十分包摂された小名望家であり続けた。この点で、小郡庁所在地の市町村長と一般コミューンの市町村長の 社会経済的性格の違いは明らかである。両者の行政実践上の機能的側面に如何なる差異があらわれるか検討するの は、本書第二部の課題となる。しかし、その前に、研究史上これまでほぼ無視されてきたナポレオン時代の地方議 会について考察しなければならない。

 

 ナポレオン体制の存在意義は、1789年の革命によって破壊された旧い社会的関係を、新たな形で再構築し、散在した諸個人を国民共同体に統合することであった。革命が何よりもまず批判の対象にしたのは、旧体制の財政の 不透明性、租税制度の不平等、免税特権であった。これらは専制的な王権の最も強い徴とみなされた。それゆえ、 革命家の関心が即座に租税問題に向けられたのはもっともなことである。新しい租税制度が、平等、透明性、市民 の同意に基づき構築されなければならなかった。この点で、雨月二八日法は、新しい租税制度への市民の参加を可能にする重要な段階を画するものであった。そこで本節では、このような雨月二八日法によって規定された県会の 性格を明らかにするために、ひとまずその職務と選任方法を確認してみる。

同法第六条は県会に関して以下のように規定している。すなわち、「県会は毎年開催される」、「開催時期は中央 政府によって決定される」、「会期は二週間を越えてはならない」、「県会は県会議員の一人を議長に、もう一人を書 記に任命する」。権限は、「県会は県内の諸郡に直接税の割り当てをおこなう」、「郡会、都市、市場町、村の減税要 求を裁定する」、「法で定められた範囲内で、県の支出のために課税が要求される付加サンチーム(centimes additionnels)の数値を決定する」、「付加サンチームの使用に関する県知事の年度会計報告を聞く」ことであった。 実際、これらの規定は県会を納税者の利益の正当な代表機関にするものであった。

 ここで想定される県会が、革命期の県会とは一線を画していることには留意しなければならない。旧体制期の社団的空間編成を解体し、フランスの諸地方を国家に統合することが革命の一つの目的であった ことはよく知られている。ゆえに、革命期の県会は、いわば県住民の代表的性格を備えない行政機関として構想された。共和暦二年フリメール一四日法による県会の廃止はその帰結である。これに対して、ナポレオン体制は、その 正統性を住民の世論を代表することに求めた。レドレルは世論の所在を最下層の民来婚にまで見据えつつ、それを 財産によって階層化されるべきものとして、県内の富裕で教養のある階層のなかに「真の世論」をみいだした。したがって、ここで述べる「世論」とは、理論的には民衆の意志を集約・昇華するかたちで、名望家が表明 する意見を指している。そして、この意見の表明の場として構想されたのが県会であった。かくして、ナポレオン 時代に再建された県会には、県住民の代表的性格が付与された。県会は、県住民のスポークスマンとして、中央政府に建言する責務を担ったのである。

 著者は、以上「県会」の職務、以下選任方法、選任過程を論じ、また県会議員の経歴に関し、年齢・年収財産等の要件、職業経歴、政治傾向、在任期間、出身地・居住地要件などについての詳細を論じていますが、詳細は、割愛します。(同様に、「郡会議員」に関しても、少い資料に基づき論議している)

 更に著者は、「県会」の運営に関して、会期、出席要件、県会の要人と県知事の関係などを、オートピレネー県の具体的例を挙げ、説明しているのですが、一種の派閥争いの様な抗争があったことを示していて、いつの世も変わらないなーといった感じでした。

 

  結論的に著者は、以下の様に纏めています。

 「オート・ピレネー県では、県会と県知事の関係は必ずしも従属的なものではなく、さりとて常に対立的なわけでもない、いわばその中間に位置するものであった。とくに1802年と1806年に選出された大土地所有者であ る合議員はフキンドヴィル派に結集し、県知事と強く結びついて会議を運営した。帝政後期に会議日数が減少したとしても、出席者数と議題の項目数が維持されたのであるから、それは県会議員の地方政治に対する関心の低下を必ずしも意味しなかった。確かに、県会における討議の重要性は低下しているが、実はこの間に、同質の社会経 済的基盤を持ち、親族関係を結ぶことで統合を進める名望家が自らの派閥を作り出し、知事陣営に与して地方にお ける影響力を強め、地方政治に積極的に関わり続けようとしたのである。そして、県知事もまた彼らの協力をえる ことで安定的な地方統治を可能にした。」

 「他方で、代表制は県会議員の選出方法を介して名目上は担保された。ほぼ男子普通選挙の形態を取った小郡集会 を基礎にして選出された県選挙人団が、県会議員の候補者の選挙に取り組んだ。むろん、共和暦10年憲法の規定 に基づき、県選挙人団によって県会議員の候補者が提案され、任命されたのは1806年のみで、1811年には おそらく県知事の介入によって、定足数の不足から県選挙人団は活動せず、県知事が代わりに候補者を提案した。 しかし、あくまで独特の方途によってであるが、県会は名望家の意志を(理論的には、民衆の意思を集約・昇華するか たちで)表明する装置として十分機能したとみなすことができるし、県知事もまた中央政府の意向に反して県会を 支持する場合がみられたのである。県会は、決して県知事の補佐機関に終始したのではなく、権威主義的政権下に おいてなお、地方住民の利益を代表することで、「県議会」の実質を備えつつあった。」

 「この政治形態のなかで、県知事が地方に関する知識が乏しかった場合には、県会のイニシアティヴはさらに強ま った。県会における討議の内容は、帝政後期に農業、公共秩序、公共事業に収斂していった。これらは、大土地所 有者たる県会議員の主要な関心事でもあった。この状況下で、祝辞の動向をみる限り、1807年から徐々に、 1810年以降顕著に、ナポレオン個人に対する不満の高まりがみられた。祝辞はもはやナポレオンの顕彰装置と して機能しなくなったのである。相次ぐ戦争と経済状況の悪化から地方が疲弊していくなかで、県会議員は県知事 との協力関係を維持しながらも、中央政府に対して満足しなくなった。そのため、帝政崩壊の直前から、名望家は復古王政に迎合することになる。一九世紀前半フランスにおいて、県知事と名望家が協力して地方統治を実現する 名望家政治は、帝政を越えて生き残ることになるのです。」

 

 続いて、第三章として、「市町村会と地方自治」に関しても詳細・細密に渡り言及されています。しかし例示しているのが、小さな村単位なので、フランス全土には、当時としても数多くの例外は、存在した可能性は大だろうというのが、読んでみた率直な感想ですが、著者が、オートピレネー県内の市町村を例にした、最小単位の自治体議会の実態から演繹した、結論を以下に示します。

 

 前章で県会の事例を扱い、本章では引き続き、都市部と農村部の市町村会の活動実態を検討してきたが、これらをまとめると、ナポレオン時代の地方議会の全貌(少なくともオート・ピレネー県のそれ)は如何なるものとして提示 とができるか。県会、市会、村会の活動実態の比較から、それらの動向にはある興味深い共通点を指摘することができる。前章において、オート・ピレネー県の県会は1806年を境にして、会議活動が後退局面に入るの が、タルブ市会においても、共和暦九年から共和暦一三・一四年まで比較的よく開催された後、県会ほどではないが会議運営は停滞した。同じく農村部の村会は、共和暦一三・一四年まで比較的活発で、総裁政府期の停止 状態からほぼ1790年の水準まで活力を取り戻したが、1806年以降、後退をみせた。ロティオやジョーンズ によれば、他の諸県の村々でもほぼ同時期に村会の活動が後退し始めたのであるから、それは全国的な動向であっ たといえよう。つまり、1806年を境にして、県会、市会、村会はタイプを問わずその活動を後退させており、 フランス全国でも同じ動向がみられたのである。そうであれば、このような転換を引き起こした原因が各地方の会 議に内在するとは考えられず、むしろ中央政府の主導によるものであったと想定することができる(それを直接的 に示す史料はまだみつかっていない)。では、中央レヴェルにおいてはこの時期、統治体制に如何なる変化が生じてい たのであろうか。

実は、この点で示唆的なのが、立法院(Corps législatif) にみられる変化である。共和暦八年憲法は、立法権を担 う二つの議会を創設した。第一は、議員100名からなる護民院で、中央政府が提案した法案を審議することを任 務とした。第二は、議員300名からなる立法院で、法案の採決が任務であった。ところが、いずれの議会も法案 提出権を持たず、法案を発議できるのは国務参事院のみであった。立法院議員は30歳以上の人物で、各県から最 低一人が選ばれることが条件づけられ、元老院が選出した。しかし、そのことは、少なくともナポレオンにとって は、立法院が国民全体を代表することを意味しなかった。むしろ、ナポレオンは立法院をあくまで「諸県の代表者 の集まり」とみなしており、バリとローカルを結びつけるものとして構想していた。では、国民を代表するものは 何か。それはナポレオンに他ならず、彼こそが唯一国民の代表者を自認していたのである。ここにはすでに一般利 益と地方利益の明確な区別をみてとることができるが、それは帝政期にいっそう強まった。

さて、ムナン(Menant)の研究を参考に、ナポレオン時代の立法院の変化を議員構成と活動実態の二側面から検 討すると次のようになる。まず議員構成について、1800年の立法院議員の半数以上は革命期の議員あるいは公職経験者であり、そのうち法曹出身者が多数を占めた。ただし、かっての国民公会議員は避けられる傾向にあった。

1802年の最初の改選では、革命から一定の距離を取り続けた人物が優遇され、行政官や軍人が積極的に選出さ れた。1806年の改選では、公職経験者よりもむしろ、単に「土地所有者」と呼ばれる人々が議員に選ばれ、帝 政後期になると、旧貴族層の回帰がこの傾向をいっそう強めた。これは、1805年末のアウステルリッツの勝利後、体制が盤石となることで支持母体を拡大するために旧貴族層を体制内に吸収しようとした結果である。それで も、彼らは断固とした王党派というわけではなく、当初革命に賛同したものの、1792〜1794年に公職を退 き、ようやく1806年以降に復職を果たした人物である。こうして、1805〜1810年には、革命期の公職 経験者はすでに25%ほどとなり、1811〜 1814には15%に減少した。その一方で、帝政期には、ます ます各県の県会議員(しばしば議長)、郡会議員、県参事会員から立法院議員が選出されることで、ローカルの代表 者としての性格を強めていった。

第二に、議会の活動実態について、立法院には毎年最大四ヶ月間の会期が認められた。会期外には、立法院議員 は彼らの地元に帰り、可決された法律の利点を住民に説明したり、県住民の世論を調査したりするなどして、政治 活動を継続した。重要な変化は、アウステルリッツの勝利の後に生じる。護民院が廃止され、立法院は廃止を免れ たものの毎年の会期の会議日数が大きく減少した。しかし、そのことは立法院の完全なる無力化を意味するもので はなく、立法院は少数議員で構成される専門委員会を形成し、それらが法案制定に関与し続けた。国務参事院はあ らかじめこれらの専門委員会に法案を提出し、会議外で、いわば非公式のコミュニケーションを経た後に、法案を 修正していたのである。

しかしながら、その後、立法院に提出された法案は、ますます財政と地方利益に関するものに限られていった。 実際、帝政期に立法院に提出された法案の半数以上は地方利益に関するもの(共同地の譲渡、道路建設の特別課税、救済院の不動産管理)であった。ナポレオンは、「諸県の代表者の集まり」である立法院においてローカルの問題か 議論されることを認めていた。立法院の権限についてナポレオンはこう結論づけている。「もし立法院が純粋に地 方利益に関わる法律に反対するならば、私はなすがままにさせておくであろう。しかし、もし立法の反対が政の前進を止めるようなことがあれば、私はそれを休会にしたり、決定を変えたり破棄するために、元老院に頼るで あろうし、必要とあらば、あらゆるものの背後にいる国民に直接呼びかけるであろう」。かくして、帝政後期には、 立法院から高等警察、外交、徴兵に関する主な権限が奪われ、国民の代表者たるナポレオンによってその法定種が 独占された。こうしてローカルの性格が強められた立法院であるが、1813年3月、ライプチヒの戦いで大陸軍 が敗北すると、ナポレオンは議員等の協力を仰ぐために立法院の開催を再び命じた。しかし、今やそれは政権批判の劇場と化したのである。

こうしてみると、立法院の動向は、前章でみた県会のそれと極めて酷似したものであることがわかる。ヨーロッ パ大陸での覇権の確立は、体制の基盤を盤石なものとしたが、それは立法院の会議日数の減少、立法院議員の地主 的性格の強まり、そして地方利益に関する議論の集中をもたらしたのである。これは全て、県会において1806年を境にして生じた事態であった。そして、タルブ市会と農村部の村会でもまた、同時期の会議日数の減少が中央 レヴェルにおけるこのような変化に従ったものであることは明らかである。では、残る二点(地方議会議員の社会経 済的性格と会議の活動内容)についてはどうか。タルブ市会では、立法院、県会と同じく、帝政期に法曹出身者や革命期の公職経験者の数が減少し、市会議員の 地主的性格が強まった。しかし、実際には、1800年以来、会議には相異なる分野を専門とする市会議員が常に 出席し続け、専門的な討議を保証した。その中心には、旧体期と革命に同市で行政を担ってきたラカイやライルといった都市の有力名望家層がおり、彼らが正会の中核をなし、討議のイニシアティブを握っていた。タルブル市

会ではこのようにして行政の継続性が保証され、専門的な討議が可能になった。市会では、しばしば都市生活の環 境整備に関して議論され、歩道・散歩道・給水所の建設、修理、舗装、街灯の設置、屠殺場の整備、消防用ポンプ の設置等、公共秩序と公衆衛生にまたがる分野が積極的に取り組まれた。こうして、タルプ市会は都市の発展に尽 力し、帝政末期までその活動を本格的に停止させることはなかった。

農村部では、確かに、村長職にはとくに1808年の入替え時に村の最富裕層から任命される傾向がみられたが (第一章第三節)、村会議員についてはむしろ、革命期、ときには旧体制期に村の公職を担ったことのある人物が優 先的に選ばれ続けることで、村行政の継続性が保証された。この点は、立法院と県会とは明確に異なる点である。 ただし、1792年〜1794年の革命の絶頂期に公職に初めて任命された人物が排除されたのは立法院と同じで、 村会議員の多くはむしろ、1790年と1791年に村行政の責任者に選ばれたことのある人物であった。

 農村部の村会、とりわけ一般コミューンのそれは、農業に関心を持ち続け、帝政期にますます討議の中心を占め た。とくに共同地の荒廃や違法利用の問題、森林・田園監督官の任免がよく論じられた。これに対して、小郡庁所 在地は、公共秩序と軍事の分野で重要な役割を果たした。ネスティエ村は脱走兵の鎮圧の拠点であったし、ブイヤ ストルック村では、都市に倣って、居酒屋や肉屋の営業の規制が論じられた。リュス村は国境地帯という特異な状 況下で、上級当局に外国人に関する情報提供の役割を担い、且つ伝染病対策のために、牧草地への外国産家畜の流 入規制で主導的な役割を担った。リュス村は、旧体制期にバレージュ渓谷共同体の首府であったことから、周辺諸 村に対して影響力を行使し続けたのである。そして、小郡庁所在地の行政上の重要性は帝政期にますます顕著になっ ていった。

小郡庁所在地は、中央権力と住民を政治的に結びつけるうえでも、重要な役割を果たした。聖ナポレオンの祭典、 ナポレオンの結婚、ローマ王の誕生が盛大に祝われたのは、常に小郡庁所在地であった。県庁所在地のタルブ市で

も、市会は機会がある度に、ナポレオンに対する忠誠を高らかに表明しており、中央とのつながりを維持しようと した。これに対して、一般コミューンでは、「国家に関わる事柄」が村会の議事録に記載されることはめったになかっ た。選挙制度において一次選挙集会が開催されたのが小郡庁所在地であることを併せて考えると、小郡庁所在地と 一般コミューンの間には、国民統合のために果たすべき役割の相違があったと結論できる。少なくとも、オート・ ピレネー県においては、国民統合と政治的関係の強化が期待されたのは、何よりもまず小郡庁所在地においてであっ た。とくに、公共秩序と軍事の重要性が高まる帝政後期には、この傾向が如実にみられた。

では、農村部の一般コミューンには何が期待されたのであろうか。農村部の村々は、郡長や県知事を介して間接 的に中央とつながることができたかもしれないが、国家の問題に直接関わることはほとんどなかった。むしろ農村 部では、村会の活動は農村共同体の集団生活に関わる問題に集中した。村会は、村行政の費用を捻出するために共 同地を管理し、賃貸や売却をおこない、共同地の荒廃や違法な利用に対処しなければならなかった。そのため、森 林・田園監督官の任免は重要な問題であった。それらの活動は、農村部の公共秩序にも大きく関わるものであった から、公共秩序の一部は村の管轄に任されたことになる。しかし、森林・田園監督官もまた、1809年には、小郡庁所在地に駐在する憲兵隊の指揮下に統合された。

いずれにしても、上級当局が一般コミューンに望んだのは、農村共同体の次元における公的事項の一定の自治行政(auto-administration)に他ならなかった。農村部の村会の活動はとくに1806年以降後退したが、その内実を みてみると、村会の討議はますます農村住民の集団生活に関わる諸事項、たとえば、豚の放牧権、森林の伐採権、 ブドウ摘み等の農業分野に集中している。立法院でみられた地方利益に関する議論の集中といった傾向は、農村部 の村会ではこのような形で顕現したのである。では、中央レヴェルにおいて、ナポレオンに掌握されることになっ た一般利益の問題はどこで扱われたか。公共秩序と軍事の分野からも明らかな通り、それは小郡庁所在地の市町村長のもとに統括されたのである。

このように、ナポレオン時代の地方統治体制では、中央から僻村に至るまで一貫した論理が貫かれていたのであ るから、中央集権的な性格が強調されてきたナポレオン体制の面目躍起といったところである。しかしながら、そ のような中央集権化は農村コミューンの「政治」を完全に窒息させたわけではなかった。帝政期に小郡庁所在地と 一般コミューンの間の行政実践上の役割分担が明確になるなかで、後者には、農村共同体の自治行政が残されたの である。逆説的にも、ナポレオン時代に実現された両者の明確な差異化こそが、フランスになお残存する大多数の 小村を維持することを可能にしたのではなかろうか。

 以上の様に、これまでの歴史考証と比し、格段に科学的なアプローチで、ナポレオン独裁体制の足場にメスを入れた本考証は、このケース以外にもその応用が広く利くと思われました。例えば、格段に情報量が多くあり、かつ解析手段もそろっていて、コンピュータも使えるネット情報をフル活用すれは、例えば、現代に於ける強権国家の中央議会、地方議会の構造と住民との関係とか、強権の根源との関わり等々。また強権国家とは、関係なさそうに見える我が国に於ける強権軍事国家への道(過去の歴史)などなど、解析的歴史観の把握に寄与出来る可能性が、あるのでは無いかと思いました。