これは、日本を代表する政治思想学者の一人だった、丸山眞男教授の直弟子である中野雄氏が、丸山生前時に接触・交歓の中で受けた、彼のクラシック音楽に関する造詣の深さの印象を、ある種感動の気持ちから記した記録であり、丸山の政治学者としての存在とは、別な側面を浮き彫りにして描いた力作です。(文中、丸山と敬称なしで表記)
丸山の自宅を訪れた著者は、最初に見た室内光景に驚きを禁じ得なかった様です。応接間は、書庫と化していて、中央には当時としては、かなりのオーディオ機器と録音機器、再生装置が処狭しと並び、SP.Lp.CD.インデックスされた各種録音テープ、またさらに驚いたことには、楽譜、総譜の類いが、天井まで伸びる六段の棚にギッシリ詰まっていたのでした。そして、どの楽譜を引き抜いて開いて見ても、どのページにも、万年筆で書いた書込みが、丹念に記されていたらしい。特にその棚の中央にはワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』全四部昨のスコアが鎮座し、如何に丸山がワ-グナーに入れ込んでいたかが分かるという物です。もともと丸山はワーグナーをヒットラーと関係づけて批判的に考えていて、ワーグナーを聴こうとはしなかったらしいのですが、丸山眞男をワーグナーの世界に誘い込んだのは、1962年8月のパイロイト体験だった様です。このときの衝撃を次の様に記しているそうです。
❝SPの時代から音楽は好きだったが、ワーグナーの作品としては序曲や前奏曲と、オペラの ごく一部しかレコードがなかった。ワーグナーの作品は通して聴かなければわからない。加え てナチス・ドイツがさかんに思いでいたという事実もある。多くの音楽家がドイツを追われた。 日本の洋楽発展に大きく貢献した指揮者のローゼンシュトックも、ユダヤ人であるため、ドイ ツ大使館などからの圧力で音楽活動ができなくされた。❞
❝作品が満足に紹介されないばかりでなく、以上のようないきさつもあって、私はすっかりり ――グナー悪いになっていた。そんな私が観た「ローエングリン」はまだ三十代のサヴァリッシ が指していた。エルザ役はアニア・シーリアで、その透き通った声は客席のすみずみまで 届いていた。さらに感動的だったのかアストリト・ヴァルナイのオルトルート。私にとっては 初めて聞く名前であり歌唱であったが、以後忘れることの出来ない歌手となった。もう一つ決定的であったのは、ヴィーラント・ワーグ ナーの抽象的なステージ作りとその効果を充 分高めていた照明の素晴らしさである。・・・・・・
『これがワーグナーか!』と思った瞬間、私の ワーグナー嫌いは音をたてて崩れ去った。 ・・・・・・ワーグナーもナチも、この精巧で扱いに くい民族のかかえた、解決のつかない大きな できごとなのだ」(『丸山眞男集」第十五卷 106頁)
また、中野氏が丸山に「英仏が近代国民国家としての歩みを進 めるなかで、ワーグナーがゲルマン民族の統 一国家を希求した心中は理解できるのですが、 反ユダヤ主義に走った理由は何だったのです か?このあたりがナチスに錦の御旗として利用される恰好の材料となったような気がするのですが。」と問うたのに対し、丸山は、次の様に語ったそうです。
❝反ユダヤ主義は、別にワーグナーの専売特許じゃないです。ドイツでは、民族の体質になっ ている。彼の書いた、あの俗臭ふんぶんたる論文は、『音楽におけるユダヤ性」がタイトルで す。ユダヤ人が、いかに音楽、とくに作曲という創造の分野に向いていないかということを、 偏見と牽強附会、つまりこじつけの論理で証明しようとした、芸術史上、 最悪の文書のひとつ です。ユダヤ系作曲家のなかにもメンデルスゾーンのような天才がいますが、ワーグナーはそ の事実を逆手にとって、バッハやベートーヴェンと比較し、『これだけの才能と、徹底した教 育をもってしても、この程度の感動性に乏しい作品しか書けない。だからユダヤ人は創作芸術 には向かない劣等民族なのだ」みたいな言い方で論難しています。また まあ、正面な議論ではなく て、ユダヤ人に対する生理的嫌悪感なんでしょうね。研究者のなかには、ワーグナーの血筋に ユダヤの家系の混入がみられるという人もいるし、本人がそれを知っていてコンプレックスに 悩んでいたという説すらあるんですから、事情は複雑ですよ。❞
❝しかし、この論文の冒頭に『新奇な説を唱えることではなく、無意識ながら民衆の内に浸 している心底からの反ユダヤ感情を明らかにすることである」とか、「ここでのねらいは、今 なお根強い国民的なユダヤ嫌いの原因を、もっぱら芸術、 それも、とくに音楽との関連におい て究明することにある」とか書いているように、ドイツにおける反ユダヤ感情というのは、昔から根が深かったんです。❞
❝国論の統一を図るもっとも有効な手段はイデオロギーの統一、つまり国家的規模における主 義・主張の一本化です。君たちが会社経営で唱えているコーポレート・アイデンティティ―― 会社の存在理由、社会的存在意義と同じような概念です。周囲を近代国民国家群に囲まれて、 西ヨーロッパの後進国だったドイツが、統一の根拠をゲルマンという『民族』に求めた。いち ばん手っ取り早い、しかも分かりやすい概念ですね。二十世紀後半の今でも、世界中で通用し ている方法です。『民族』を統一概念とするという思想は、即「非民族」を排除するという行動につながる。統 一のためには民族を純化しなければならないから、異分子はとにかく取り除かなくてはならな い。とりあえず、国内の異分子のなかでもっとも眼について邪魔な者が狙われるわけです。誰 がみても分かりやすいからです。主張はなるべく単純明快な方が効果があがりますからね。ポ ―ランドなど、東欧系の国々から来たユダヤ人には原理主義者が多くて、髭、髪の毛、容貌、 服装など、特徴が眼につきやすい移民が多い。そういう人たちに対する民衆の生理的嫌悪感を 利用したわけです。❞
❝芸術の世界でも、政治の世界においても、自分を正当化して周囲を一本にまとめる最高の戦 術は、共通の「敵」を作って、それを叩くことです。ワーグナーにしても、ヒトラーの場合も、狙いと取った手段は同じです。スターリン、ヒトラー、毛沢東―――独裁者は皆、『敵』を作る名人です。異民族、国内の政敵、それに昔の同志――パターンは共通していますね。もっと も、ワーグナーの場合、身近なターゲットはプロイセン国王の知遇を得て人気絶大だったマイ ヤベーアだった。今では半ば忘れられている人ですが、お父さんがユダヤ系の銀行家で大金持。 ワーグナーはドレスデンの宮廷にいたわけですから、いろんな意味でライヴァル視していたんじゃないですか。ただし、論文のなかにマイヤベーアの名前は出していません。人種問題に名 を借りた中傷ですね。ワーグナーという人の性格は実に複雑ですよ。リストとか、パガニーニ とか、十九世紀ロマン派は異常な人格を何人か生み出したけれど、ワーグナーはまた別格です。
❝生涯を追ったり、書いたものを読んだりすると、正直なところうんざりせざるをえないので すが、『音楽』は凄いな。作品にはただただ圧倒されるのみです。1962年のバイロイト以 来、恥ずかしいけれどワーグナーにイカレてしまった❞
こうして、ワーグナーの作品の虜になった丸山は、特別な思いで『指輪』等を聴いていたのでしょう。この辺りの推移には同感する処大です。
一方中野氏の本を読み進むと、丸山には音楽関係の論評とか著作物が(少ない例外を除いて)極端に少ないという事が書かれています。むしろ自分の音楽観に関しては著作物でなく(弟子や関係者との)対話の中で表現することを専らにしていた様です。これは彼の信条だけでなく、健康的なこと、タイミング的なことも影響しているのかも知れません。(本業の政治思想に関する著作はかなり若い時から注目され、長じてその業績は広く社会に認められる様になった。『近代日本思想史講座』全八巻はそれらの集大成。)
以上ワーグナーに関して中野氏が丸山の音楽趣向をかなりのページを割いて書いていますが、その他の作曲家、作品に関する好みについては、次のアンケートに答える形で丸山が書き残している様です。
(丸山)あるアンケートに答えるかわりにここにしるす。
〇私が好きな曲(どんな気分のときにでも、ききたい曲)
・フォーレ「レクイエム」→私が死んだときには、このレコードをかけてもらいたい。
・ベートーヴェン「第三交響曲」、ピアノ・ソナタ200、魔笛の主題による変奏曲(チェロ とピアノ)。
・ヴィヴァルディ「調和の幻想」その他、彼のコンツェルト・グロッソ。
・バッハ「ブランデンブルグ協奏曲」第三番と第六番、カンタータ一四〇番。
・シューベルト「未完成交響曲」だれかこれを通俗名曲という! これほど高貴な美しさが、
・「冬の旅」。
・悲哀感と美事に結合して「完成」している曲があろうか。
・アルビノーニ「オーボエ協奏曲ニ短調」
・モーツァルト(困るなあ!)「ピアノ協奏曲」K惱二短調。
・「ビアノ協奏曲」収へ短調「ピアノ・ソナタ」K300イ短調。
・「ヴァイオリン・ソナタ」ホ短調。(その他何でも!)
・シューマン「交響練習曲」、「ピアノ四重奏曲」変ホ長調。
・ビゼー「カルメン」→天才だ!
・プッチーニ「トスカ」
あるアンケートに答えるかわりに、ここにしるす。
〇私が心から尊敬する曲(妬ましいとまで思う曲)
・ベートーヴェン「交響曲第五番」
・「アパッショナータ」→ともに沸とうする非合理的なバトスを合理的形式 にきっちりとおさめた手腕。通俗名曲などというコトバに呪いあれ!
・「交響曲第三番」→前頁とダブルけれども、第二番からのおどろくべき飛 躍という点で・・・...°
・パッハ「マタイ受難曲」→どんなオペラよりもオペラティックだ。
・モーツアルト「ドン・ジョヴァンニ」→これは、モーツァルトの「ファウスト」だ!
・ヴァーグナー「ニーベルングの指環」→空前にしておそらく絶後の野心的な試み。
・ベルリオーズ「ロメオとジュリエット」→おどろくべき現代性!
・ヴェルディ「リゴレット」、「オテロ」→オペラの面白さに酔わせる。
・ハイドン「告別」→なんという斬新さ!
丸山の好みが、短調の音楽に集中していること、過度の感傷に陥ることがなく、透明度の高い気品を湛えた悲哀の音楽が多いことの様です。
ただ中野氏も指摘するように、ショパンの作品が、一曲もない。チャイコフスキーもラフマニノフも無い。リストも無い、ということが少し気にかかります。丸山が知らない訳が有りませんから、その好みを書かなかった理由が何かある筈です、今となっては永遠の謎ですが。
この書物の前半は『ワーグナーの呪縛』に関して、後半では『藝術と政治の狭間で』と副題を付けていますが、後半でもナチスとの関係をフルトベングラーを例に挙げて、論じています。何故かと言うと、丸山が終生敬愛して止まない音楽家は、ベートーヴェンと指揮者フルトベングラーだったそうで、前半のワーグナーではなかったのですね。「終生」ですから、より重い基準があったのでしょう。そして丸山が生涯の痛恨事と考えていたのは、フルトベングラーの実演を聴く機会がなかった事の様です。詳細は割愛しますが、
丸山はフルトベングラーの録音を聴いて、そのすごさが分かる人だったのですね。総譜を持ち出して、ここがどうだとか、あそこが凄い響きだとか談義していたそうです。
以上雑駁で、自分の意見らしきものは殆ど出しませんでしたが、大筋において丸山眞男の音楽観を理解し、受容出来る範疇だという事が言える書物内容でした。