【日時】2024.11.28.(木)19h〜
【会場】NHKホール
【曲目】
①バートウィッスル『サイモンへの贈り物』2018
(曲について)
長きにわたって、イギリスの音楽界を牽引し続 けたハリソン・バートウィッスル(1934-2022)。ク ラリネット奏者として音楽活動をはじめたバート ウィッスルは、ニュー・ミュージック・マンチェス ターという演奏グループを結成。このグループで 新ウィーン楽派の作品やポスト・ウェーベルンのア ヴァン・ギャルド作品を演奏することで、いわゆる 「現代音楽」に触れることになった。1957年には ブーレーズやシュトックハウゼンの作品に出会 い、作曲を志すことを決意する。
バートウィッスルの音楽スタイルを、特定の 「楽派」に当てはめるのは難しい。初期のスタイ ルはストラヴィンスキーやメシアンから大きな影 響を受けており、いくつもの複数の音楽的要素を
響を受けに そのまま併置する手法を駆使した。オスティ トを多用するのもその特徴で、荒々しく、と げしさを前面に押し出したその音楽性は、明 でその片鱗を留めた。オペラでは、英国で 人気を保つ人形劇を原作とする《パンチュ ディ》(1967-68年)を皮切りに、多くは神話 ぎ話の題材から採られ、殺される間際に言 れるようになる表題役を描いた《ミノタウ (2008年)は大きな注目を集めた。
半世紀近い付き合いを続けた作曲家と サイモン・ラトル。バービカン・センターとロンド 交響楽団は、音楽監督に就任したラトル に、バートウィッスルに新作を委嘱し、《サイモンへの贈り物2018 Donum Simoni MMXVⅢ》と題した、木管・金管楽器と打楽器のための4分ほどの ファンファーレが作曲された。金管が蠢きながら 音を積み重ね、クライマックスに達したかと思う と崩れ去る。木管楽器と打楽
器がパルスを刻みつ つ、ときには金管と同期する。音楽が生成と崩壊 を繰り返しつつ、生命体のように息づくさまに、 この作曲家のエッセンスを見ることができよう。(音楽学者 広瀬大輔)
②マーラー『交響曲第7番ホ短調』
(曲について)
第7交響曲は、マーラーの「ウィーン時代」に完成されている。第2楽章と第4楽章は1904年、交響曲第6番の完成に引き続いて作曲されており、これらの音楽には相互の関連が認められる。とはいうものの、第6番で打ち出された古典的形式への回帰とは異なり、第7番では、第5番と同様のスケルツォ楽章を中心とする対称的な5楽章構成をとっている。また、第1楽章がロ短調で開始されるが、主部はホ短調、終楽章はハ長調という「発展的調性」をとっていることも第5番と共通する。
しかし音楽的には、第5番より多声的書法にもとづく重層的・多義的展開がいっそう進んでいる。全体としては調性音楽のうちに踏みとどまってはいるが、部分的に調性はあいまいとなり、多調や無調の明確な誕生を予感させる。
管弦楽の扱いでは、管楽器、打楽器の充実は第6番と同様であるが、前作のハンマーの代わりに、ギターやマンドリン、テノールホルンなどが使用されている。全曲を通じてホルンが重視されており、よく目立つ。奏法的に多彩なことも特徴で、音色・響きの工夫が凝らされ、劇性よりもむしろ室内楽的な配慮が見られる。
全楽章を通じての構成としては、ベートーヴェン以来の、「暗」から「明」に至る伝統的な進行が見られるものの、その経過にも帰結にもとくに明快な必然性が感じられないことから、物語としての読解が難しく、この曲は「構成的に難がある」「分裂症的」などと批判されてきた。
こうした経緯から、第7番は同じ純器楽のための作品でありながら、比較的明快で親しみやすい第5番や、緊密な構成のうちにきわめて劇的な音楽が盛り込まれた第6番の陰に隠れた存在として、マーラーの交響曲のなかでもあまり人気のない作品であった。しかし、1970年代後半から始まったマーラー・ブーム以降、第7番の再評価の動きも始まり、近年は録音機会にも恵まれ、読解についてもポストモダンとの発想的な親近性や、メタ・ミュージックとの分類など、さまざまな新しい解釈が生まれている。
なお当作品には第2・第4楽章「夜曲(Nachtmusik)」に由来する「夜の歌(Lied der Nacht)」という俗称があるが、これは後世の後付けであり、マーラーおよび作品には全くの無関係である。
【演奏の模様】
①バートウィッスル『サイモンへの贈り物』
初めて聴く曲です。管弦楽曲かと思っていたら、管奏者と打楽器奏者のみが登壇し、弦楽器は全くありませんでした。上記(曲について)にある様に、ロンドン交響楽団が音楽監督に就任したサイモン・ラトルの為に委嘱・作曲して貰った作品で、管と打の様々な応酬により、時には静かに時には姦しく賑々しくファンファーレなどによりラトルを讃える様に聞こえました。確かに短い曲だけれど何かセレブレイト感のある演奏でした。
②マーラー『交響曲第7番ホ短調』
今回は休憩無しの演奏会で、その主眼とするところはこのマーラーのかなり難解な側面を有する曲の演奏だったと言えます。
いつものマーラーの交響曲演奏会で見る舞台光景、即ち弦楽の他に多くの金管楽器、通常の打楽器+珍しい打楽器が多く準備されていたのは壮観でした。今回の座席は1階右翼前方席だったので弦楽奏者の影に隠れて金管や打楽器の詳細が、良く見えない所がかなりありました。
〇楽器編成:ピッコロ、フルート 4(ピッコロ持替え 1)、オーボエ 3、コーラングレ、小クラリネット、クラリネット 3、バスクラリネット、ファゴット 3、コントラファゴット、テノールホルン、ホルン 4、トランペット 3(第5楽章でピッコロトランペット持ち替えあり)、トロンボーン 3、チューバ ティンパニ、大太鼓、小太鼓、タンブリン、シンバル、トライアングル、銅鑼、ルーテ(むち)、グロッケンシュピール、カウベル、低音の鐘、ハープ 2、ギター、マンドリン、弦楽五部16型、
〇全五楽章構成
第1楽章 Langsam (Adagio) – Allegro risoluto, ma non troppo
第2楽章 Nachtmusik I. Allegro moderato
第3楽章 Scherzo. Schattenhaft
第4楽章 Nachtmusik II. Andante amoroso
第5楽章Rondo-Finale. Allegro ordinario
全体を聴いた概括の印象を先ず記します。今回のラトルの演奏は、このあいだのブルックナーやブラームスの交響曲の場合よりもかなり雑然感と言うか混沌感と言うか、マーラーのこの曲本来有する特性を演奏の中心柱にそえ、如何にそれらに統一性を持たせようかと四苦八苦する指揮者と奏者の姿がかいま見られました。私見によれば八割方は成功していたと思いますが。手練れたラトルが得意な曲とは謂えども7番の解釈は簡単ではない様です。
第1楽章冒頭のHrn.の音。(かと思っていたら)通常のHrn.でなく「テノールホルン」の様です(奏者が良く見えない。従って楽器も良く分からない。どの楽器がいまの音を出しているかは、やはり上階席だと良く見えるのですが。)。ひとしきり木管(+金管)の響きが収まると、管の先導により弦楽が弓の根元を使った強い途切れ途切れの旋律をPizzicato奏を交えてすぐに管弦の最初の全強奏に入りました。こうした弦・管入り乱れた行ってみればすっきりしない強奏がしばらく続くのです。その後はVn.奏主導の美しいマーラー的な演奏が挟まれますが、それもつかの間すぐに分裂的な混沌の世界に突入、リズム的には緩急織り交ぜ似たようなテンポで進行、この間、例のHrn.が何回も合いの手を入れるのです。高音の木管の響きなど、ある種ヒステリック的にも聞こえ、この20分以上に及ぶ長大な1楽章の前半でマーラーが何を表現したかったのか演奏者もラトルも聴く方も確信が持てないのではなかろうかと思われるオーケストレーションでした。後半は突如コンマスのソロ音が鳴り出し、木管とVn.アンサンブルが弱奏で寄り添っていましたがそれもすぐシュリンク。前半のテーマ奏が弱くではありますが復活し、高音の弦楽トレモロの中、Trmp.のファンファーレのOb.の合いの手(前回のOb.奏者では有りませんでした。従って音色も異なっていた)暫くは木管、金管の穏やかな弱奏が続き、これが又しっとりとしたいい響きでした。続くHp.の上行クリッサンドの後からVn.の高音アンサンブルが鳴り響きます、これは如何にもマーラーらしい調べで、緊張感のあるラトル・バイエルン響のいい演奏でした。それにしてもこの楽章テナーホルンの出番が多いですが、普通のHrn(2)アンサンブルでは全体の色彩が変ってしまうのでしょうかね。マーラーは他の曲でも時々変わった打楽器などの指定がありますが、その効果を考えると???の時も。
最終局面ではマーラーらしい調べと簡潔スッキリした終章の演奏で切れ味良く終了しました。
第2楽章は、「 Nachtmusik」の表示のある急速楽章。今度は本物のHrn.の音です。こだまするようにHrn.(2)が掛け合い、Cl.の鳴き声が混じって来ました。この楽章、Ob.の哀愁を帯びた景色を浮かばせた演奏、カウベルが鳴らされ、想起される田舎の風景、木管による鳥の鳴き声宜しくの調べ等、この曲自体『田園』と名付けるむきもある位の素朴な楽章で、ラトル・バイエルン響はその味わいを十分に発揮できていたと思いました。
第3楽章は全体としてリズミカルな不気味な雰囲気を醸し出すスケルツォ楽章でした。弦と管と打との兼ね合いが融合することを拒否している様な意味不明な印象をもちました。
次の4楽章は、コンマスがソロ演奏音を何回か立てましたが、ギターやマンドリンの音が錯綜するマーラーらしい新規楽器の音を試した楽章でもありす。如何にもリュートを手に夜鳴き鶯の如くマドリガルを恋人の窓辺で歌う中世騎士の姿を思い浮かべてしまいますが、マンドリンはとも角もギターは若干雰囲気が異なって来るのでは?
最終楽章が非常に圧巻の聴き処満載の面白い楽章でした。その迫力あるラトル・バイエルン響の演奏にもかかわらず、全体としての統合性がパロディ化された旋律の種類によって、変化させる切り替わりが、何か弾き急いだりバランスが僅かにおろそかになったきらいがあるのでは?別に演奏自体を云々する気はないのですが。もともと様々な有名曲をリレー的に恒常旋律でサンドウィッチした構造の繋ぎ目のオーケストレーションが、例えば、この間聴いた、タンホイザー序曲の見事な繋ぎ手法で作曲したワーグナーの様なスムーズさが不足しているからではなかろうかと思ったからでした。さらに勘ぐれば、1〜4楽章を四苦八苦して作曲したマーラーは、最終楽章に及んで、ハタっと、「どの様に作曲しようか?」と思い悩んだのではなかろうか?とも考えられます。その回答がこれ、パロディだったのです。古今東西、パロディは、多くの作曲家にかなり使われてきた作曲手法です。バッハなどその代表例かも知れません。
でも自らの作品からの引用(マーラーは、自分の歌曲からよく引用していますね)ならまだしも、世の全然関係ない他人の曲から多くを利用して曲を造る行為は、現代日本の知的財産権法では、「書作権翻案権」の侵害に当たるかも知れません。(マーラーの時代ですから何ら問題ないですが)マーラーがパロディで最終楽章を締め括ったことは、聴いていて相当な面白みは、感じましたが、一方で、何か別な形で作曲して欲しかったと残念な気もします。
それにしても、最終局面でのラトル・バイエルン響の弩迫力の演奏には、さすがと思わす説得がありました。演奏が終わると、珍しい程席が超満員(ブルム翁以来かな?)の会場からは、大歓声と拍手喝采の波が怒涛の様に押し寄せたのでした。