昨日の Fiction 超短編小説70』(R.シャパード/J・トーマス編、村上春樹・小川高義訳、文春文庫)の続きです。
③『ロイヤル・ストリートの歌』リチャード・ブレッシング
「なあおまえ、ちゃんとした脚をひと揃いどっかで買ってこいよ」自分たちのあとを吠えながらちょこまかとついつくる 黒いダックスフンドにむかって彼は毒づく。
「ウィロウ・ストリート、ここ覚えている?」と彼女は言う。「これもあのときと同じ犬なんてことあるかしら」
「おいおい、あれは十三年も前の話だぜ。それにこいつはどうみてもまだ子犬じゃないか」
「じゃあいいわよ」と彼女は言う。「これはあのときの犬の子供なのよ」
二人はニュー・ オーリンズの通りを歩いている。大学のある地域だ。まるで雨のよう にけぶる霧のおかげで、夜はもったりと重かった。犬は歩をとめて、ミモザの幹の匂い を嗅ぐ。そしてふたりは幅の広い葉をつけた木々の下を歩きつづける。あたりにはスイカズラの薫りが満ちている。
「お互いに年とったよな」と彼は言う。「たいしたもんじゃないか?」 「よしてよ」と彼女は言う。「四十はまだ年寄りのうちには入らないわよ」
彼は自分の腹のあたりについた肉のことを思う。そして顎の下の弛みのことを。それ にくらべれば、彼女は綺麗に年をとっている。ブロンドの髪はいまではカールし、短く なって、彼女によく似合っている。からだつきはふっくらとして、もう少女のからだで はなくなっている。成熟した女のからだ。
「どうやら僕らが計画したようにはことは運ばなかったようだね、残念ながら」と彼は 言う。「僕が計画したようにはいかなかったということだけどね」
「世の中そううまくはいかないでしょう。誰だってそれは同じことよ。でもそんなに悪 くはなかったんじゃないかしら?」
テュレイン・スタジアムが、まるで歴史の本の中に出てくるカセドラルみたいに、霧 の中にすっと浮かびあがる。そのあたり一帯の家々の姿を圧するかのごとく堂々と。
「おそらく君にとってはね」と彼は言う。「君には息子がいる」
「あれ見て」と彼女は言う。「スタジアムだわ。フレンチ・クオーターのモテルでの感謝祭のことを覚えている? それからここに来て試合を見たことを?」
「覚えてるさ。テュレインが負けた」
「試合のことは覚えてないな」
「君にはね」
「ああ、そいつはなにより」と彼は言う。
しばらくのあいだふたりはあてもなく歩きつづける。肩を触れ合わせながら、「この 街のことが懐かしいな」と彼は言う。
「いまだってそんなに悪くないじゃない」と彼女は言う。「私たちには幸せで健康な子供がちゃんとひとりいるし」
「君にはね」
「そういう言い方しないで」と彼女は言う。「あの子は本当にあなたのことを懐かしがっているのよ。でもあの子 にも事情がわかっているのよ」
暗がりの草の中でコオロギが鳴いている。昔にくらべたらハイヒールの踵が低くなったんだなと彼は気がつく。そんな穏やかな靴のおかげで、彼女は小さく見える。縮んで しまったように見える。背が彼の肩くらいの高さしかない。
「君は魔法というものを信じるかな」と彼は尋ねる。「ロイヤル・ストリートに黒人の おばあさんがいた。ずっと昔、僕らがまだつきあいはじめたころのことだよ。僕らにお金をくれと言った女。覚えてるかな?」
「覚えてないわ」
「金をくれと言われたけど、僕はそのまま歩いて通り過ぎた。覚えているはずだけどな。 その女は僕らのあとを追いかけてきて、僕の手をつかんで、僕にむかって何かの歌を歌ったんだ。覚えてるはずだよ」
「知らないわね、それ」
「そのあとで僕は坐りこんでしまったんだ。気分が悪くて、頭がくらくらした。そんなの気のせいよって君は言った。べつになんでもないのよって君は言った。あなた気に病んでいるだけ、ただの思い込みよって」
「思い出せない」
「それを境にして、僕らはもう二度と幸せになれなかった」
「思い出せない」
「まあいいさ」と彼は言う。「それはまあいい。何はともあれ僕らには健康な子供が一人いる」
「たいしたことだわ」
「すごいことだ」
「本当に」
ふたりはマカリスター・ドライヴを登っていく。煉瓦造りの学生寮や、影に包まれた 中庭を通り過ぎる。夏ももう終わりに近い。学生たちはみんな故郷に帰ってしまっている。ミモザの低い枝の下を通るときに、彼は頭を下げる。 「そんな黒人の女の人が本当にいたの?」と彼女は訊く。
「僕は思わず坐りこんでしまったんだよ。それくらい気分が悪かったんだ。そしてその次の日に、君が妊娠していることがわかった。これで思い出してくれたかな。それから は知ってのとおりさ。彼女はロイヤル・ストリートで歌を歌ったんだよ」
「私 はあなたが脅えていたことを覚えている。まるで子供みたいに。子供が死んで生まれることをあなたはあのとき望んでいたのよね」
「そんなことはない」
「『方法がないでもない』ってあなたは言った。『そういう知り合いがいる』ってあなたは言ったのよ」
「違うよ。あの黒人の女なんだ。あの女が歌を歌って、それで僕は具合が悪くなったん
だ」 「あなたは子供が死んでることを求めていたのよ。私には女の人のことなんて思い出せない」
ふたりは角のところまで来た。街灯の明かりが重く湿った木々の葉ごしにちらちらと 光っている。一台のバスがライトを照らしてそばを通り過ぎ、霧雨まじりの闇の中に消 えていく。
「ほら、あれフレレット・ジェットだよ」と彼は言う。「俺たちいやっていうほどあのバスに乗ったじゃないか。フレレット・ジェットだぜ、懐かしいなあ」
「それ作り話でしょう」と彼女は言う。「その黒人女のこと」
「その女が歌を歌ったあと、君は僕ともう二度と寝なかった」と彼は言う。「ただの一度もだ」
「つわりがきつかったのよ」
「ただの一度もだぜ」
「彼女は私の手を取ったんじゃないのよ。私に歌いかけたんじゃないのよ」
「じゃあその女のことは覚えているんだね?」
「覚えてないったら」
彼は一時停止の立て札に拳を叩きつけ、その痛みに耐えかねて一方の膝を折る。彼は女の顔を見上げる。「女はちゃんといたんだよ」彼はゆっくりとそう言う。「あの女は僕の手を取ったんだ。ロイヤル・ストリートで。そして歌を歌ったんだ」
「私の手を取ったわけじゃなかった」
「それを境にぜんぜんうまくいかなくなった。何ひとつうまくいかないんだ」
「私はクリスのことで体の具合がよくなかった。それからお父さんが死んだ」
「たくさんの人が死んでいくさ」
「あんなふうにみんなが死ぬわけじゃない。あんなにひどい死に方はしない」
「でもそれ以来何ひとつうまくいかないんだぞ」
「それは違うわ」と彼女は言う。「あなたにとっては、それ以来何ひとつということでしょう」
「嘘をつくなよ」と彼は言う。「君だってそれは同じはずだ」
彼女は彼のほうを向く。細かい霧の中で、その目は燃えている。「わかったわ」と彼女は言う。「わかったわ、たしかにその女のことは覚えているわよ。ひどい女だった。皺だらけで、いやな匂いがして。あの女があなたの手を取ったとき、その目はぎらっと赤く光っていた。まるで沼地に住んでいる生き物みたいに」
「そうじゃない」と彼は言う。「あれはただの女乞食さ」
「彼女が歌ったとき、そこには死の響きが感じられた。彼女はあなたに死の呪いをかけ、
あなたはそれに気がつかなかった」
「思い出せない」
「それは違う」
「あなたは覚えているわよ、ちゃんと。それからというもの、あなたに手を触れること はまるで悪夢のようだった。あなたには墓場の匂いがした。あなたは歩く死者だった。 自分をよく見てみなさいよ。あなたは私のお父さんよりもっと深く死んでいるわよ」
「実は女なんていなかったんだ。まるっきりのでっちあげだよ。言い訳代わりのつくりごとだよ」
「違う 。そのあと私はあなたとはもう決してつきあわなかったでしょう」
「それは違う」
「彼女は年寄りで、ひどい顔をしていて、そしてあなたはお金をあげようとしなかった。 その女はその膿だらけの手であなたに触れたのよ。ロイヤル・ストリートで彼女はあなたに呪いをかけたのよ。私はそれ以来二度とセックスをしなくなった。あなたとはね。
他の誰とだって寝た。でもあなたとは絶対に寝なかった」
「その女の話はでっちあげなんだったら」
「泣くのはもうよしなさい」
「どうしようもないよ。僕にはもう何もないんだ。子供だってもういないんだ」
「泣くのはよして」
「君は僕に会いにきてくれなかった、一度も」
「あなたは怖がっていたの」
「ただの一度もだよ」
「私があなたに触ったとき、私は死に触れていたのよ」と彼女は言う。 彼は体育館の冷たい石の階段に腰を下ろす。彼女は彼の焦点の外に出たり中に入ったりする。まるで調整の悪い双眼鏡を通して見ているみたいに。
「あの黒人の女」と彼は言う。
「そう」と彼女は言う。「あの黒人の女」
「そんなものはいないさ」と彼は言う。「それは実は君の手であり、君の歌だったんだ」
「わかったわ。わかったわよ。でも私たちには立派な子供がちゃんと一人いるじゃない」
「そうだ。それはたいしたことだ。それがすべてだ」と彼は言う。
「でもそれはあなたの子供ですらないのよ」と彼女は言う。 (村上春樹訳)
④『眠そうな女』ゲーリー・ギルドナー
北 ミシガンの小さな町、といえば親父が若いころ暮らしたところで、そういう親父には、
レストランに勤めるイタリア系の友だちがいた。ここではフィルという名前にして おこう。フィルは、レストランで何の変哲もない仕事をしていた。――――朝はコーヒーを 淹れて始まり、夜は掃除して終わる。ひとつ変わっているのは、フィルがピアノを弾く ことだった。土曜日の夜になると、親父やフィルが女の友だちを連れて、車で街道を十 分か十五分行った先の、ある湖畔の居酒屋で、ビールを飲んだりダンスをしたりした。
そしてフィルは、おんぼろの古ピアノを弾くのだった。題名さえ言えば、どんな曲でも 弾いてのけた、と親父は言った。だが、みんなして待っていたのは、フィルの自作の曲だった。いつでもフィルは、町へ帰るまぎわになって、締めくくりにそれを弾いた。この曲は好きな女がいたから書いた、というくらいは、もちろん誰でも知っていた。美人で、その娘は感謝祭やクリスマスや復活祭には帰ってきたので、みんなが町を抜け出し、いつもの店へ行って、ビールを飲みダンスをし、まったく昔のようになった。もちろん、夏だって同じこと。そして、娘が父親との約束を果たしきれば、晴れてふたりは 結婚する、と誰もが思った。フィルが古ぼけたピアノに向かい、恋人への曲を弾くとき、このふたりの目を見れば、そう書いてあった。 と、このふたりの目がどうこういうところは、もちろん、親父の話にはなかったが、私の気持ちとしては、じれったがられるのを覚悟で、この辺に入れておきたくなる。この話が、もう何年も前、テレビもない時代の、北ミシガンの鬱蒼とした湖畔でのことな のは忘れないでもらいたい。できれば、もう少し、口をはさみたいくらいだ。とくに、 あの曲のこととか、それを歌うフィルの気持ちとか、自分のことだと知りながら聞いて いる女の気持ちとか、まだ言いたいことはあるのだが、こんな単純な話の中で、しかも、 私とは関わりのない話の中で、すでに口を出しすぎてしまった。
さて、結末はいかに。まあ、大方の見当としては、あるときついに、休みになっても 彼女は帰らなかったというところだろう。大学で見かけのいい男と出会い、これが金持 ち同士の組み合わせということで、また、フィルのことを知っている父親が、あんな男は忘れろと圧力をかけつづけていたせいもあり、とうとう娘も新しい男の言うことをきいて、休暇には男の実家がある町へ出かけ、すっかり恋仲となる――。というような筋書きを、地元の連中も考えた。卒業した彼女が、もう夫と連れだって現われ、その男が さっさとドイツ人の銀行の跡継ぎになったのだから。――そして、男はポンティアックの新車を買った。これが、私の親父が技術屋をしていた店だったわけで、なんでも即金で払ったそうだ。現金払いの話になると、いつでも親父は、いったん黙って首を振り、 また口を切った。ひどい時代だったのに、ばりっとしたワイシャツ(それにフレンチカ フス、とお袋は言った)を着た男がやって来て、ぽんと現金を出した。 そして、また親父は首を振った。フィルのことだ。フィルは例の歌をもって、ベイ・シティへ行き、二十五ドルで売った。あの歌で稼いだのはそれだけだ。これがつまり、 たったいまラジオで聞こえた歌で、そういえばと親父が昔を思い出したわけだ。で、フ ィルはどうなったか? 彼は、ずっとベイ・シティで暮らし、映画館の管理人になった。 不況時代のあと、フォードの仕事で親父がデトロイトへ移る途中、そこでフィルに会っ た。立ち寄った親父に、フィルはポップコーンを一箱出した。恋人に書いた曲は何百万枚とレコードが 売れた。曲名を言えば、歌いだせるくらいの、少なくともメロディーを 口笛に吹けるくらいの曲だ。あの女は、これを聞いてどう思うだろう。そうそう、親父 はフィルの女房にも会ったらしい。夫婦して映画館に勤めていて、奥さんのほうは、切符を売ったり、映画がはねたあと、押して動かす式の掃除機をカーペットにかけ からだも声も大きな女で、あの娘とは似ても似つかなかった、とお袋は言った。
(小川高義訳)
以上2回に渡って四つの「超短編」作品を例に挙げましたが、全70話の中の何らかの「音楽」に関係すると思われる話をピックアップしただけなので、この四話のみで全体像を想像するのは、諺に言う「群盲の象を撫でるが如し」のたぐいの誤理解を招く恐れがあります。この四話は、何れも楽しさや面白さからは遠い、むしろ苦渋のペーソスをおびたものが多いのですが、その他の話の中には以下の様に、非常に短い、3ページ弱の「超小話」的なものもあり、これ等は(現実的なものとは思えませんが)、読み終わった後、ニヤリと笑顔になれる話であり、その他様々なものがあることを申し添えておきます。
◯『玄関先に坐る人々』 H・E・フランシス
その朝、男と女が彼の家の玄関の階段に腰を下ろしていた。ふたりは一日じゅうそこ に坐っていた。ふたりはいっかな動こうとはしなかった。
メトロノーム的に正確な間をおいて、玄関の扉の窓ガラス越しに、彼はふたりの姿を 見やった。
ふたりは暗闇が訪れてもそこをどかなかった。いったい彼らはいつごはんを食べて、 いつ眠って、いつ用を足すのだろうと、彼は不思議に思った。
夜が明けても、ふたりはそこにじっと坐っていた。日が照っても、雨が降っても、彼らはそこにいた。
最初のうちはまわりの人たちが電話をかけてくるだけだった。あの人たちはいったい 何なんですか? 彼らはあそこでいったい何をしているんですか?
そんなことは彼にもわからなかった。 いもわからなかった
もう少し遠くの住人たちが電話をかけてくるようになった。彼らの姿を通りがかりに 目にとめた人たちが電話をかけてきた。
その男と女が話しているところを耳にしたことはなかった。
そのうちに街じゅうの人々から電話がかかってくるようになった。赤の他人、市の長老たち、専門職の人たち、牧師さんたち、ゴミあつめの人たち、郵便配達夫(彼はふた りのわきを通って手紙を届けなくてはならないのだ)、そういう人たちからだ。何とか しなくちゃならないと彼は思った。
そこをどいてもらえませんか、と彼はふたりにむかって言った。
そのふたりは何も言わなかった。彼らはそこに坐ったまま、いかにも興味のなさそう な目をじっと向けただけだった。
警察を呼びますよ、と彼は言った。
警察はふたりを叱責した。彼らの権利の制限について説明し、ふたりをパトカーに乗 せて連れていった。
朝になるとふたりはまたそこに戻っていた。
次のときに警察はこう言った。もし拘置所が満員じゃなきゃ彼らをそこに入れておけるんですけどね。まあもしどうしてもというのであれば、我々はどこか他のところに場 所を見つけなくちゃならないということになりますが。そんなのはあなた方の問題じゃありませんか、と彼は言った。いや、それはまったくあなたの問題ですよ、と彼らは言った。でも彼らはとにかくそ のふたりを連れていった。
あくる朝、外を見ると、その男と女はまた階段に坐っていた。
そこに彼らは何年ものあいだ毎日坐っていた。
冬になれば、彼らもこごえ死んでしまうんじゃないかと彼は期待していた。でも死んだのは彼のほうだった。
彼には親戚がいなかったので、その家は市に接収されることになった。
その男と女はそこにじっと坐りつづけていた。
市がそのふたりを無理やりどこかに追いやろうとしたとき、近所の人たちや街の人たちは市を相手取って訴訟を起こした。こんなに長くそこにじっと坐っていたのだから、 彼らにはその家を手に入れる権利があるはずじゃないかと。
請願書の側が勝った。そのようにして家は、その男と女のものになった。 朝になると、それまで顔も見たことのない男たちと女たちが街じゅうの家の玄関の階段に腰を下ろしていた。
(村上春樹訳)
村上春樹さんは自らの作品が欧米で沢山翻訳されている世界的に有名な作家ですが、以上の様に、逆に欧米の作品(主として米国の小説)を日本語に翻訳する活動に於いても甚大な貢献をされていることは注目に値します。