井上・都響/ベト6&ショスタコ 6 を聴く
【日時】2024.5.30.(木)19:00〜
【会場】東京文化会館
【管弦楽】東京都交響楽団
【指揮】井上道義
【曲目】
①ベートーヴェン:交響曲第6番 ヘ長調 Op.68「田園」
(曲について)
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)自らが《田園》と題したこの交響曲は、1807年から1808年にかけて作曲された(構想は1803年頃から)。同じ1808年に完成され初演も同じ日になされた交響曲第5番とともに、この頃の彼の革新的な姿勢が様々な面でみられる曲だが、とりわけ第6番で注目されるのは標題的な特性を備えていることである。作曲者自身「絵画的描写よりもむしろ感情(気分)の表現」であると断ってはいるものの、各楽章には情景的な題が付され、描写的な面も随所に現れるこの作品のあり方は、のちのロマン派の標題交響曲に大きな影響を与えることになった。
ロマン派が目指したような標題交響曲をベートーヴェンが意図していたわけではないものの、19世紀の作曲家たちにとってこの作品がひとつの範となり、ベルリオーズの《幻想交響曲》や《イタリアのハロルド》などに始まるロマン派の標題交響曲の隆盛をもたらすことになったという点で、この作品はきわめて大きな意味を持っている。
こうした標題的な性格に即して、この作品は構成・形式の点で従来の交響曲にはない新しい特質を示している。最も際立った特徴は、当時の交響曲としては異例の5楽章構成をとり、しかも第3楽章以降を連続させた点だろう。つまり従来のスケルツォ楽章とフィナーレを繋げる中間楽章として、自由な形式による描写的な“嵐”の楽章を挿入しているのである。これは、田舎の集いが嵐で遮られその嵐の去った喜びが神への感謝に至る、という標題的な意味の繋がりを示すにふさわしい構成である。
書法の点でも、例えば第1楽章の展開部で、第1主題の中の動機を意図的に単調に繰り返す効果とそれを支える和声の色合いの変化とを組み合わせることによって、田園風ののどかな、しかも微妙に変わる雰囲気を生み出している。まさに「感情(気分)の表現」に見合った手法であり、標題的内容とソナタ形式の動機労作の方法を結び付けようとする実験的な創作姿勢が窺えよう。
②ショスタコーヴィチ:交響曲第6番 ロ短調 Op.54
(曲について)
交響曲第5番ニ短調を作曲し、その名誉を回復したショスタコーヴィチが1939年に書いた叙情的な作品である。前作とこの作品との関係は、ベートーヴェンの「運命」と「田園」の関係と似ている。ただ、ベートーヴェンの「田園」は標題的であるのに対して、この作品には標題のようなものはない。
【演奏の模樣】
昨日(5/29 水)、今日(5/30 木)と暖かで、先ず先ずの天気となりました。今日の文化会館は、チケット完売だったらしく大勢の人で溢れ返っていました。今日の演奏曲は、①ベートーヴェンと②ショスタコービッチのシンフォニーの何れも6番です。
自分としては、このところ6番のシンフォニーを主にベルリンフィル・デジタルコンサートホールの配信で好んで聴いて来ました。4月、ペトレンコ・チャイコフスキー6番、5月に入ってペトレンコ・マーラー6番、アバド・ベートーヴェン6番、そしてブルックナー6番も聴く予定にしていました。
これには少し不純な動機と言うか余り感心出来ない切っ掛けがあったのです。この3月下旬頃から体調が崩れ、風邪を引いてズート長引いて中々直らない状態でした。丁度その頃は「東京春音楽祭」が真っ盛りで、連日上野に通いつめ、聴いた演奏会の記録を深夜まで書いていることもざらでした。歩いていても体が重くだるい日が続いたのです。その頃丁度親戚に風水や占いの知識に造詣が深い者がいて、家にやって来た時、その者は冗談半分に「日本一の占い師に手相を見せてご覧」などと、良く皆を笑わせるのが常でした。その者に体調が悪いと言ったら、何やらそのご宣託(?)では、❝3,4,5月は運勢が衰えているが、6月からは運気が上昇、ラッキーカラーはピンクゴールド、ラッキーナンバーは6❞と宣(のたも)うのです。心の中では「またいい加減なことを言って」と思っていました。自分としては占いなど、非科学的な発想は昔から(現在も)ばかばかしく思っているので気にもかけていませんでしたが、人間とはやはり弱い存在なのですね。心の隅に「困った時の神頼み」的気持ちが残っていたのでしょう。多くの作曲家のナンバーを聴く時、(通常だと何等かの切掛けで選ぶことが多いですが)交響曲は6番という選択が自然と頭に浮かんだのです。確かに上記の運勢の衰退は、4月下旬に入って『帯状疱疹』が発症したことにより、残念ながら非科学的見立ての勝利となってしまい、家内共々❝占いが当たったね❞と顔を見合わせる結果になってしまいました。そして今回の井上・都響を聴きに行ってハッと気が付いたのです。選曲が何れの交響曲も6番です。井上さんは昨年相当体調を崩され、やっと回復、昨年11月の『マーラー2番《復活》』公演で見事復活された訳です。従って、今回の選曲6番には「健康運気上昇」を願う気持ちの表れではないかと、勝手に思った訳です。
①ベートーヴェン『交響曲第6番 《田園》』
楽器編成:ピッコロ、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、トロンボーン2、ティンパニ、二管編成弦楽五部8型(8-6-6-3-2)
(尚、Hr.以外の金管群は第三楽章以降の演奏なので、演奏途中に舞台上手から静かに奏者が入場しました)
全五楽章構成
第1楽章「田舎に着いた時にめざめる喜ばしい快活な気分」アレグロ・マ・ノン・トロッポ ヘ長調
(この題はベートーヴェンによる元の表記。これまでは初版発行時に出版社の意向で修正された「田舎に着いた時の愉快な気分のめざめ」が長らく踏襲されてきたが、原典版が出たことにより近年はこの表記が普及してきた)
第2楽章「小川のほとりの情景」 アンダンテ・モルト・モッソ 変ロ長調
第3楽章「田舎の人々の楽しい集い」 アレグロ ヘ長調 スケルツォに相当
第4楽章「雷雨、嵐」(従来版では「雷鳴、嵐」)アレグロ ヘ短調 自由な形式による短い間奏的な楽章
第5楽章「牧人の歌。嵐の後の神への感謝に結び付いた慈愛の気持ち」
この曲は最近(5/16)、ベルリンフィルの演奏の模様を配信で見ました。井上さんの都響の演奏は、結論的に言うと部分、部分で井上さんの個性的な指揮が反映されていると思える箇所も散見されました(例えば三楽章の終盤では、弦楽のトゥッテ強奏をかなり抑制して響かせていた。また弦楽器の最終楽章のフィナーレが猛烈にゆっくりなスローテンポだった)が、概ね「田園交響曲」の味わいは、十分聞いている者に伝播したと思われます。ただベルリンフィルの演奏よりもかなり小締んまりとした感だったのは、楽器編成の弦楽器の規模の違いが大きく影響したと思います。 今回は8型と標準規模だったのに対し、ベルリンフィルはかなり大きい編成12型(12-10-8-6-4)と人員(弦楽奏者)が1.5倍もいたのです。必ずしも”❝大きいことはいいことだ❞とは限らないのですが、両者の田園交響曲の響きには大きな差が出ていました。一階正面前方席で聴けば非常に良い響きだったでしょう。残念ながら1階最後方の席で聴いた事も影響したのかも知れません。でも自分としては相当好きな曲を立派な演奏で聴いて満足でした。
②ショスタコーヴィチ『交響曲第6番』
20分の休憩から戻ると舞台には①の時と比べものにならない位の椅子等が並んでいました。
〇楽器編成:三管編成弦楽五部16型(16-14-12-10-8)
<木管楽器>ピッコロ1、フルート2、オーボエ2、イングリッシュホルン1、クラリネット3(うちピッコロクラリネット持ち替え1)、バスクラリネット1、ファゴット3(うちコントラファゴット持ち替え1)
<金管楽器>ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ1
<打楽器他>ティンパニ、トライアングル、大太鼓、小太鼓、シロフォン、タムタム、シンバル、チェレスタ、タンブリン、ハープ
〇全三楽章構成
第1楽章Largoロ短調。
第2楽章Allegroト長調。
第3楽章Prestoロンド形式
②-1
冒頭の神妙なVc.とVa.による低音弦楽奏の分厚い響きが心地良く響きました。非常に印象深い響き。井上さんは大振りの動きでタクトを取っています。Fl.とOb.が合の手を入れ併奏し、やがてVn.群も参加し、全オケの強奏に至りますが、不協的音も混じった調べは新鮮味のある魅力的なものでした。木管の暫しの演奏と弦楽奏が続き、ピッコロのソロ音が再度弦楽によるテーマ奏が繰り返されます。ピッコロの軽やかな高音のみならず、バスクラリネットの渋い音が明快にオケに存在感を主張しているのも良し。 特に終盤、弱音で響くVn.アンサンブルに木管のソロ音の響きが呼応してうねるオケの強奏音が相変わらずゆったりと続く箇所、その後バスクラリネット等(多分con-Fg)の木管が静かにトリを取るのも秀超でした。
②-2
Vn.のPizzicatoの下にCl.がとても速いテンポで駆け抜けFl.∔Picc.が猛烈に後を追うと全弦楽がそれらに応じます。度々張り上げるPicc.の叫びに木琴の合いの手が応じ、チャチャララチャチャチャ、チャチャララチャチャチャと弦楽が掛け合いを入れるところも面白い。打楽器奏者は幾つも掛け持ちでとても忙しいそうでした。この楽章ではリズミカルでユーモラス、元気一杯といった調べが進行しました。井上さんもかなりノリノリ。
②-3
この楽章も冒頭から速い進行で、ウンジャラウンジャラウンジャジャジャと超高速道路を突き抜ける感じでしかもリズミカル。低音弦のPizzicato上にVn.アンサンブルが速いボーイングで盛んに弓を上下動していました。この流れに度々割って入る管の乱入と言って良い程の掛け合いは何かバレエかオペラの物語性を掻き立てられます。特にショスタコーヴィッチはこの曲に標題性を意図していなかったのでしょうけれど。終盤で入ったコンマスのソロは、少し物足りませんでした。この楽章の生き生きとした空気を牽引する覇気が感じられない、すこぶるおとなしい演奏、もう少し華が有っても良かったのでは?
演奏が終わると満員の文化会館は、久し振りで聴く様などよめきと拍手喝采、歓声が上がりました。井上さんも活発な演奏に疲れを見せず、各パート毎に演奏者を讃え、会場からも大きな拍手。井上さんは余程お元気になったのでしょう、手振り身振りで各種のパーフォーマンスを見せていました。
楽団員が去った後も、残った観客はカーテンコールの拍手を続け、首席奏者達と共に登場してエールを交換していました。
文化会館を岐路に着く聴衆は通常の演奏会よりも多くごった返ししていましたが、自分も含め皆満足そうに見えました。