HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

NNTTオペラ『ボリス・ゴドノフ』三日日を観る


 このオペラは、モデスト・ムソルグスキーが作曲したプロローグと4幕から構成されるオペラであり、「ボリス・ゴドノフ」や「ボリス・ゴドゥノーフ」とも称される。今日ムソルグスキーの作曲したオペラの中で、もっとも有名な作品です。
 ロシアの実在したツァーリのボリス・ゴドゥノフ(1551年 - 1605年)の生涯を中心にオペラ化したといわれます。

 

【演目】ボリス・ゴドノフ(ムソルグスキー作曲、原作プーシキン)
【上演時間】全4幕 約3時間25分(プロローグ・第一幕70分 休憩25分  第二・三幕40分 休憩25 第四幕45分
【日時】2022.11.20.14:00~
【会場】NNTTオペラパレス
【出演】
(ボリス・ゴドゥノフ)ギド・イェンティンス
(フョードル)小泉詠子
(クセニア)九嶋香奈枝
(乳母)金子美香
(ヴァシリー・シュイスキー公)アーノルド・ベズイエン
(アンドレイ・シチェルカーロフ)秋谷直之
(ピーメン)ゴデルジ・ジャネリーゼ
(グリゴリー・オトレピエフ〈偽ドミトリー〉)工藤和真
(ヴァルラーム)河野鉄平
(ミサイール)青地英幸
(女主人)清水華澄
(聖愚者の声)清水徹太郎
(ニキーティチ/役人)駒田敏章
(ミチューハ)大塚博章
(侍従)濱松孝行


【演 出】マリウシュ・トレリンスキ
【美 術】ボリス・クドルチカ
【衣 裳】ヴォイチェフ・ジエジッツ
【照 明】マルク・ハインツ
【映 像】バルテック・マシス
【ドラマトゥルク】マルチン・チェコ
【振 付】マチコ・プルサク
【ヘアメイクデザイン】ヴァルデマル・ポクロムスキ
【舞台監督】髙橋尚史
【管弦楽】東京都管弦楽団
【指揮】大野和士
【合唱】新国立劇場合唱団
【児童合唱】TOKYO FM 少年合唱団
【合唱指揮】冨平恭平

 

【粗筋】
〈プロローグ〉戴冠式を前に群衆が集まっている。ゴドゥノフは最高位の僧ピーメンと緊張関係にあるが、儀礼的にその指輪に口づけをする。幼いドミトリー皇子の死の幻影に慄くゴドゥノフだが、戴冠式の彼の演説は人々の心を掴む。

 

〈第一幕〉6年後。ピーメンは僧グリゴリーに、自分こそ現皇帝に殺害されたドミトリーの生まれ変わりと信じ込ませていた。グリゴリーはドミトリーの僭称者となる。宮殿へ向かうグリゴリーは二人の僧と共に宿屋に立ち寄る。追手が到着するが、僧たちに惨殺される。

 

〈第二幕〉ゴドゥノフは数年の支配に疲れ切っている。娘クセニアは婚約者の死を悼み、息子フョードルは、将来の自分の治世の展望を話して、父の涙を誘う。ゴドゥノフの臣下シュイスキーは、皇帝の弱みに付け込むことを思い立ち、ゴドゥノフにウグリッチで目撃したことを克明に語り聞かせる。彼の地での行為を思い起こすゴドゥノフの前に、死んだドミトリーの天使のような姿の幻影が現れる。宮殿に迫るドミトリーの詐称者は、復讐の天使なのだろうか。

 

〈第三幕〉ゴドゥノフはまたも悪夢を見る。ウグリッチの子供たちがゴドゥノフを取り囲む。フョードルが憎しみに満ちた目で父を見る。父の罪を非難しているのだ。現実にフョードルは高熱で朦朧とし、「ゴドゥノフがドミトリーを殺害した」という聖愚者の糾弾を繰り返している。

〈第四幕〉無秩序状態の議会へゴドゥノフが登場。シュイスキーは狂乱寸前の皇帝を嘲笑う。ピーメンが人々の病を癒すという亡きドミトリーの幽霊の話をし、ゴドゥノフを挑発する。ゴドゥノフは苦しみながら己の罪を告白する。そこへドミトリーの名を語る僭称者グリゴリーが登場、議会は混乱に陥る。ゴドゥノフはフョードルを呼び死が迫っていることを伝えるが、息子は理解できない。

【フィナーレ】集団の暴動が続く中、僭称者グリゴリーは自らが新たな皇帝であることを宣言する。

 

【作曲の経緯】
 1868年、ムソルグスキーは当時燃えるような創作意欲と作曲に没頭できない官吏の生活との矛盾に苦しんでいた。その影響があるためか、『ボリス・ゴドゥノフ』を作曲する以前の1856年に『アイルランドのハン』、1863年から1866年にかけて、フローベールの原作による『サランボー』、ゴーゴリの原作による『結婚(英語版)』などのオペラを作曲したが、いずれも未完成に終わっている。
 同年の春、ムソルグスキーはリュドミーラ・シェスタコーワ夫人の音楽家のサロンにしばしば顔を出し、当時夫人のサロンに出入りしていた歴史家のウラディーミル・ニコルスキーと会い、ムソルグスキーがオペラの題材を探していることを話すと、ニコルスキーは早速「プーシキン物語」の中にある劇詩「ボリス・ゴドゥノフ」を作曲することをすすめた。劇詩を読んだムソルグスキーは物語の面白さに心を惹かれ、「ボリス・ゴドゥノフ」のオペラ化にすることを決意した。
 1868年9月、ムソルグスキーは官吏の勤務先を林野局に転じられたが、おりよく幸運にも親友のオポチーニンが家に迎えてくれたため、その好意に甘んじて10月から本格的に作曲に着手した。勤務先が近くにあり、静寂な郊外の周辺であったため 作曲は滞ることなく1868年10月から1869年の初夏までに声楽の総譜が完成され、同年の12月15日にはオーケストラの総譜も完成した。(この時点で初稿を完成させる)
 ムソルグスキーはオペラの作曲に着手して以来、しばしば友人たちの音楽サロンで完成した部分を聴かせていたという。オーケストラの部分は親友の顧問官ブルゴールドの令嬢ナデージダが受け持ち、ムソルグスキーは自分自身が歌手となって全てのパートを歌ったと伝えられる。
 完成されたオペラ第1作『ボリス・ゴドゥノフ』は、その上演を求めて1870年の夏に帝室歌劇場管理部に総譜を提出したが、帝室歌劇所側から上演を拒否されてしまう。これに対しムソルグスキーは憤慨したが、ウラディーミル・スターソフや友人たち(その中にはリムスキー=コルサコフもいた)からの意見を聞いたうえで考え直し、すぐさまオペラの改訂に着手した。改訂版は1872年の6月23日に完成された。

 

【上演の模様】

<プロローグ+第一幕>

管(多分En-Hr.)による低音が鳴り出し幕が開き、弦の静かな旋律と管の心地良い響きがテーマを奏でると弦が繰り返し、本来であればモスクワ近郊の修道院の前庭の場面ですが、今回の舞台を見ると三つの透明な箱型空間(キュービック、以下⑨と略記)が置いてあります。二つの⑨は舞台左方に直列に並び、もう一つは舞台右方にあって、中には何やらベッドとそこに横たわる少年が見える。寝ながら手首を動かす表情からは正常からぬものを感じます。とその時左の二つの⑨に沿って舞台奥からボリス・ゴドノフ(以下ボリスと略)が出て来て、歌うというより何かぶつぶつ語って、そうしているうちに倒れて伏せてしまう。左の⑨は動き出し舞台中央を経て右方に移動、移動中雷光の様な光が⑨の中、周囲に閃滅、ライトに依る照明効果を使っている模様。今回の演出は、もともと映画の監督であるマリウシュ・トレリンスキー(ポーランド人)、NNTTのプロモート映像を見ると、彼は、キュービックに関して次の様に述べています。

   ❝立方体キューブが動き回り映像が映し出されます。ジョークと言える程動き回り形を変える、ルービックキューブ的なもの。舞台上に様々な人が登場し繰り広げることは、すべてゴドノフの頭の中のできごと。キューブの様相がゴドノフの心理をメタファーとして反映するように描きたい❞

 

 このことから推測すると、ゴドノフが倒れたのは様々な苦悩によるものと思われ、その心理状態は閃光にまみれた⑨のせわしい移動により暗示されるのです。

 

 広場には集散する民衆、守衛(役人役駒田敏章)が出て来て「跪け!」と命令。合唱が

❝あなたは誰のところにわれらを見捨てるのだ、われらの父よ!ああ、誰のところに放っておくのだ、あるじよ!われらは皆か弱いあなたの農民。ああ、そうだ我々はあなたに頼む、乞う、悲嘆の涙で、お慈悲を!お慈悲を!お慈悲を!貴いお方よ!われらの父よ!あるじよ!貴族様、お慈悲を!❞ 

と歌うのです。ここで「父」とは神のことでなく、ツァー(皇帝)のことです。先の王朝の衰退に対し、その廷臣のトップ(いわば総理大臣ってこと)であるボリスに王座に就くことを望む弱き人々の歌声でした。

 再度、守衛が出て来て今度は「何故騒ぎを止めた!一声を出し惜しみするな!」とせきたてると人々は再び ❝あなたは誰のところにわれらを見捨てるのだ、われらの父よ!ああ、誰のところに放っておくのだ、あるじよ!われらは皆か弱いあなたの農民。悲嘆の涙で、お慈悲を!お慈悲を!貴いお方よ!われらの父よ!われらの父よ!あるじよ!あるじよ!あるじよ!ああああああ ❞と歌うのでした。新国劇合唱団は相も変わらず声は揃っていていい感じ。そこにサングラスをかけた背広姿の衛士長シチェルカーロフ(秋谷直之)が登場し、人々の間に歩み寄り ❝お集りの諸君!公は頑として願いを聞き入れない!貴族会議員と総主教の悲痛な呼びかけにそしてツァーリ即位について耳を貸そうとしなかった。ルーシにおける悲しみだ・・・出口の無い悲しみだ、諸君!悪意に満ちた無法に大地はうめき声をあげている。神の力にすがろう、神が、悲しみに沈んだルーシに慰めを遣わすことを。そして天の光によって照らし出すことを、ボリスの疲れた魂を!❞と歌います。歌声はかなりいい声をしている。

この辺りのストーリの流れを見ると、どうもボリスもその取り巻き連も支持派民衆も、ボリスを王座に付けるためのスタンドプレー(やらせ)の感もしました。何せ王位簒奪ですから、そのショックを減殺し出来るだけ正当性を世に知らしめるためのお芝居は、古今東西、簒奪者の常套手段です。秦の趙高、漢の王莽、随の楊堅(文帝)、李氏朝鮮の開祖李成桂等々、前王朝の最終期に留めを指して、自分が王座に就いた例は歴史上枚挙に暇ありません。

 舞台では人々を模している女声合唱、男声合唱隊が上段下段に横一列に並んで歌ったり、戴冠の場面では、舞台左右に三縦列に並び、中央奥にはハの字型に並び、さらに右方三列の手前には僧侶(貴族?)たちが並んで歌う中、ボリスが中央の奥から登場、群衆は 

❝栄光あれ、栄光あれ!ああ、空の赤い太陽に栄光あれ、栄光あれ!栄光あれ、栄光あれ!ツァーリあなたこそわれらの父!われらのツァーリ! ご健勝でツァーリ ボリス・フョードロヴィッチ!ご健勝で!ああ、空の赤い太陽に栄光あれ!栄光あれ、栄光あれ!ああ、ロシアのツァーリ ボリスに栄光あれ、栄光あれ!ツァーリに栄光あれ!栄光あれ!栄光あれ!栄光あれ!栄光あれ!❞

と興奮気味に歌い讃えるのでした。

 ボリスは人垣の間を前に進み、歌うのです。

❝心は深く悲しんでいる。沸き出でるある種の恐怖が不吉な予感で私の心臓を凍らせた。おお心正しき者よ、おお我が偉大なる父よ!天から忠実なしもべたちの涙に目を向けて、私に遣わしたまえ、神聖さを 善き権力の。私は善良で公正になるだろう、あなたのように、そして我が民を栄光のうちに統治するだろう...さあ、挨拶しよう眠れるロシアの支配者たちに。(王の威厳を持って)そしてあちらで人々を祝宴に招待する、農民から盲目の物乞いまで、皆を、皆々入場自由、全員が大切なお客である!❞

 と。自分から進んで好んで王座に就くのではない。支えてくれる人民に推挙されて、やむに已まれず人々の幸福のために就任するのだというスタンス。そうプリテンドしなければ、ボリスは簒奪の罪の意識に堪えられなかったのかも知れません。その後の場面で心がもだえ苦しむボリスの懊悩の場面が続く訳ですから。ここでボリス役のギド・イェンティンスは、劇場も主役変更のメッセージで宣伝している様に、昨年11月の新国劇オペラに登場していて、しかもロシア語のボリス・ゴドノフの経験もあるという事で、タイトルローの代役となったみたいですよ。

 彼が出た昨年の「ニュルンベルグのマイスタージンガー」は二回聴きに行きました。その時の彼の歌についての感想は少ないですが以下に引用します。

 

❝エーファの父親ボーグナー役ギド・イェンティンスの歌う場面は多くないですが、よく響くいい声のバスでした 2021-11-18 HUKKATS ROC【オペラ速報】ワーグナー『楽劇・ニュルンベルクのマイスタージンガー』より抜粋❞  

 

❝それにしてもエーファの父親ポーグナー役のイェンティンスは、硬質な声質ながら全然力まなくとも伸びる安定したバスを響かせていました。出番が少ないポーグナー役では物足りなかったでしょう。(2021-11-28 HUKKATS ROC ワーグナー『楽劇・ニュルンベルクのマイスタージンガー』第4日目再鑑賞)より抜粋❞

 

 今回のボリス役での歌声も、基本的には昨年と同じ印象ですが、今回はこの一幕の後、随分歌う箇所が多い訳ですから、前後しますが全体を聴いた印象を先に記しますと、失礼ながら最盛期は過ぎたバス歌手なのかな?といったものでした。それは、安定した熟練の歌声で、時には会場一杯に強い響きを轟かせていましたが、多くは抑制的な歌、やや力強さに物足りなさを感じる歌唱でした。 本来であれば、ボリス役はエフゲニー・ニキティンが歌う筈で、チケットを買ったのもその素晴らしい歌声が聴けると思ったからでした。それが主役変更、その他の主要役柄の歌手ともども聴けなくなってしまった。何と言ったらよいか愚痴はこぼしたいのは山々ですが、非常に残念でしたの一言に留めます。二キテンの歌声は、U-tubeの 『Evgeny Nikitin sings Monologues and Death of Boris』(Monologue of coronation scene --My soul grieves Soliloquy --I have attained supreme power Death of Boris --Farewell, my son, I am dying from Boris Godunov by Modest Mussorgsky Orchestra e Coro dell'Accademia Nazionale di Santa Cecilia Conductor: Stanislav Kochanovsky Bass: Evgeny Nikitin April 2014, Roma

 で聴くことが出来ます。30分近くの映像です。将に偽ボリス・ゴドノフでなく本物の歌声ですね。これなら何回も聴きに行く羽目に陥ったことでしょう。

 また話は別ですが、ブリン・ターフェルもボリスを歌っている模様。ターフェルは来春来日し、「トスカ(演奏会形式)」やオペラのアリア・リサイタルで歌うことになったので早速チケットを手に入れました。(東京春音楽祭では、主役変更はこれまでほとんどなかったのではないでしょうか)

 こうしているうちに時間はどんどん経ってしまいました。少し端折って記録を書きますと、

 第一幕では、ビーメン(歌ゴデルジ・ジャネリーゼ)とグリゴリー・オトレピエフ(歌工藤和真)が登場し、ビーメンは盛んにグリゴリーにボリスに殺されたドミトリーの生まれ変わりだと吹き込んで、その気にさせ(偽ドミトリー誕生)、こうした事実は正確に年代記に留め、歴史に刻まなければならない、もう少しで出来上がると机に向かって励むのでした。

 確かにどこの王朝でも暦年の記録は、重要なこととされ、先に挙げた中国でも朝鮮でも、また日本の王朝でも、記録をする専門の部署が設けられ、史実の改竄は、たとえ王や皇帝の命令でも死を覚悟してでも拒否するという厳格な考えが優勢でした。(それに控え数年前からの我が政府における公文書の改竄など、嘆かわしいにも程があります)

ビーメン役のゴルデジの歌唱は深いダイレクトなバス声を響かせていた。しかも若手にしては、老僧役も上手くこなしていたと思います。グリゴリー役の工藤さんは、一昨年東京音楽コンクールでの最高賞を取った後、引きも切らぬ出演依頼があったのでしょう、あちこちで活躍のテノールです。以下にコンクール優勝者演奏会を聴きに行った時の模様を引用して置きます。

 

 ❝次の演奏はテノールです。堂々と現れた工藤さんはかなり恰幅がいい、見た目はバリトンかバス歌手かと見まごう程。②ヴェルディ作曲『仮面舞踏会』より”永久に君を失えば”を歌い始めた時は、少し緊張している感もあったが、すぐ調子を上げると同時に、最後までブレないで安定に歌い切りました。続いてプチーニ作曲『ラ・ボエーム』より“冷たき手を”。終盤の高音を思い切り張り上げた声は日本人離れした発声と見た。エンジンがかかるのが速い歌手です。次曲マスカーニ作曲『カヴァレリア・ルスティカーナ』より“母さん、あの酒は強いね”も、切々と胸の思いを最後吐き出すような勢いで歌い、休む間もなく続いてプチーニ作曲『トゥーランドット』より“誰も寝てはならぬ”を歌い始めました。よく聴き慣れた歌ですが、耳に何ら違和感がなく聞こえ立派に歌い終わったのでした。館内は拍手と歓声で大きく湧きました。工藤さんの課題は私が感じた点では、高音は素晴らしい日本人離れした歌い振りなのですが、声をつぶさないか心配です。また低音域がやや弱いかな?高音域と低音活きのバランスが取れた時、一回りも二回りも大きくなって様々な歌をこなせると思いました。 2020-01-13 HUKATTS Roc『東京音楽コンクール優勝者コンサート』

より抜粋❞

 今回の歌を最後まで聴くと、やや歌の存在感が一回り小さくなった感じがしました。最も発声を無理なくスムーズにしないと歌手生命に影響があるでしょうし、上記引用の時の様な声に負担のかかるテノールでは歌えないので、色々試行錯誤している時期なのかも知れません(或いは単に調子が出なかっただけかも?)

 

第二幕では、偽ドミトリーが僧院の仲間とボリス打倒のため僧院を抜け出し、モスクワに向かうのですが、途中立ち寄った宿で、ボリスの投げ打った刺客たちに襲われ、あわよくば偽ドミートリが殺されかけたのですが、そこを逆襲して、刺客たちを始末し切り抜けるのでした。ここでは宿の女主人役の清水華澄さんが、非常に独特なメゾソプラノで歌い、役回りも庶民性を出す好演で、存在感を示しました。はまり役ではなかったでしょうか。

 第三幕、四幕では、ボリスの懊悩、悶絶が基本線に流れていて、息子のフョードルが体が不自由な身で⑨内のベッドに横たわったり、前幕では抜け出して舞台を這い蹲って動いたり、このボリスの悩みは息子が、自分が世継ぎとして国を治めるとしたら不安が大きいと言ったり、父親を罵倒(ドミトリー殺し)してい醒めたり、それらのみならず、配下のジェイスキー公がボリスを「真実を知っている」と脅したこと等等、ボリスの悩みは最大限に増幅されて、結果的に殺しの再犯を犯してしまうのでした。もう気がふれていたのでしょうね。

 第四幕2場のボリスの次の最後の歌は、本来であれば鮮明に記憶に残っている筈ですが、今回のイェンティンスの歌唱が、余り印象に無いのはどうしてでしょうか?

❝ボリス
神よ!神よ! 私は苦しい!本当に罪か...罪の赦しを神に祈るな!おお、邪悪な死よ!おまえは何と残酷に苦しめるのだ!
(飛び起きる)
待ってください...私はまだツァーリだ!

(心臓をおさえて肘掛椅子に崩れる)
私はまだツァーリだ...神よ!死よ!
(低い話声で)私を許せ!
(貴族たちに、息子を指しながら)
ほら、ほらお前たちのツァーリだ...ツァーリだ...
許して下さい…
(囁き声で)許して下さい…

貴族たち(囁き声で)
お眠りになりました…❞

 

 それにしても最後の舞台シーンが、ボリスが絞首され逆さ吊りにされて幕となるのは確かに後味の悪い演出だったと思います。

 

 今回の演目はロシアオペラという言語はまったく知らないオペラだし、少し調べると「聖愚者(ユーロジーブイ)」等という言葉が出て来て、これは世界概念でなくロシア固有の概念の模様、などなど聴きに行くには躊躇する要因が多かったのですが、滅多にない機会なのでオペラパレスに足を運びました。

 でも音楽としてはかなり民族調の調べも織り交ぜられ、ムソルグスキー調の旋律が溢れていて、歌手のアリアこそ目立ったものは少ないのですが、その分最初から最後まで合唱が、人民役の歌い手を補足して余りある大活躍ぶりで、合唱団の質の高さを見せつけられました。また管弦楽は大野さんの手兵とも言える都響ですから、あのマケラが抉り出した響きからは程遠いですが、いつもながらのVn.アンサンブルの綺麗なこと、管・打の弦楽との協調性の良さの発揮など、オペラの演奏としては良い演奏だったと思いました。