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綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

マケラ『パリ管弦楽団』藝術劇場演奏会を聴く

【日時】2022.10.15.(土)16:00~

【会場】東京藝術劇場

【曲目】

①ドビュッシー/交響詩《海》

(曲について)

《「海」管弦楽のための3つの交響的素描(La Mer, trois esquisses symphoniques pour orchestre )》は40歳になったドビュッシー(1862年~1918年)が、翌年から二三年かけて作曲した管弦楽曲。1905年に発行された総譜の表紙には、葛飾北斎の版画作品が用いられていたことは有名です。

「冨嶽三三十六景《神奈川沖浪裏》」

ドビュッシーは、1899年に結婚したロザリー・テクシエ(愛称リリー)という11歳年下の妻がいたが、『海』を作曲中の1904年に銀行家夫人で同い年のエンマ・バルダックとの仲を深め、ついには不倫の間柄となった。  ドビュッシーは7月にリリーを実家に送り返すとエンマと逃避行に旅立ち、イギリス海峡にあるジャージー島ドーヴァー海峡に面したノルマンディー地方のディエップを順に巡り、9月下旬にパリに戻った。その後、ドビュッシーとリリーの別れ話はリリーのピストルによる自殺未遂(10月13日)にまで発展し、このことは11月4日付けの『フィガロ紙』によって報じられた。「ドビュッシーは銀行家夫人の財産目当てに妻を捨てようとしている」という噂が広まり、ドビュッシーは世間の批判の矢面に立たされ、これまで親交のあった友人の多くも彼から離れていった

当初リリーにはドビュッシーと別れる意思がなく、離婚に向けた調停は、『海』を書き上げた1905年3月の末になってようやく始まることになった。話がまとまるまでにはさらに数ヶ月を要したが、結局、ドビュッシーは1905年7月17日に正式にリリーと離婚し、エンマを以降の生涯における伴侶とした。エンマはこの時すでにドビュッシーの子供を身ごもっており、同年10月30日はドビュッシーとエンマの娘、クロード=エンマ(愛称シュシュ)を出産した。それは『海』の初演が行われた約2週間後のことである。


②ラヴェル『ボレロ』

(曲について)

フランスの作曲家、モーリス・ラヴェル1928年に作曲したバレエ曲である。同一のリズムが保たれている中で、2種類の旋律が繰り返されるという特徴的な構成を有しており、現代でもバレエの世界に留まらず、広く愛される音楽の一つである。2016年5月1日、本国フランスにおいて著作権が消滅した。この曲は、バレエ演者のイダ・ルビンシュタイの依頼により、スペイン人役のためのバレエ曲として制作された。当初、ラヴェルはイサーク・アルベニスのピアノ曲集『イベリア』から6曲をオーケストラ編曲することでルビンシュタインと合意していたが、『イベリア』には既にアルベニスの友人であるエンリケ・フェルナンデス・アルボスの編曲が存在した。ラヴェルの意図を知ったアルボスは「望むなら権利を譲りましょう」と打診したが、ラヴェルはそれを断って一から書き起こすこととした。

作曲は1928年の7月から10月頃にかけて行われた。同年の夏、アメリカへの演奏旅行から帰ってきたラヴェルは、海水浴に訪れていたサン=ジャン=ド=リュズの別荘で友人ギュスターヴ・サマズイユにこの曲の主題をピアノで弾いてみせ、単一の主題をオーケストレーションを変更しながら何度も繰り返す着想を披露した。当初は『ファンダンゴ』という題名が予定されていたが、まもなく『ボレロ』に変更された。


③ストラヴィンスキー/バレエ音楽「春の祭典」

1910年、ストラヴィンスキーは、ペテルブルクで『火の鳥』の仕上げを行っていた際に見た幻影(“輪になって座った長老たちが死ぬまで踊る若い娘を見守る異教の儀式”)から新しいバレエを着想し、美術家ニコライ・レーリヒに協力を求めた

『火の鳥』の成功後、バレエ・リュスのための新しい音楽を注文されたストラヴィンスキーがこのアイデアを披露したところ、ディアギレフやレオン・バクストもこのテーマに興味を示し、ディアギレフの手帳には、1911年度の上演予定作品として『牧神の午後』と『生贄(『春の祭典』)』が併記された

ところが、同年9月末にローザンヌのストラヴィンスキーを訪問したディアギレフは、そこで聞いた作曲途中の『ペトルーシュカ』を気に入り、これを発展させてバレエにすることにしたため、『春の祭典』は一時棚上げとなった。

1911年6月に『ペトルーシュカ』が上演された後、『春の祭典』の創作が本格的に開始された。ロシアに帰国していたストラヴィンスキーはレーリヒを訪ねて具体的な筋書きを決定し、レーリヒはロシア美術のパトロンであったテーニシェヴァ公爵夫人のコレクションから古い衣裳を借り受けてデザインの参考にした。同じ頃に「春のきざし」から始められた作曲は[、同年冬、スイスのクレーランスで集中的に作曲が進められた結果、1912年1月にはオーケストレーションを除き曲が完成した。ストラヴィンスキーはこの年の春に演目として上演されることを希望したが、ディアギレフはこれを翌年に延期するとともに、大規模な管弦楽のための作品にするよう要望した。その後、モントルーでオーケストレーションが進められ、1913年に完成した

 

 

【演奏の模様】

①ドビュッシー/交響詩《海》

 『海』は具体的な標題音楽ですが、構成にも重点が置かれている三つの楽章からなる交響曲と見なす事も出来ます。 三楽章構成であり、複数の楽章で同じ主題や動機を使う「循環形式」が用いられている点で、当時の他のフランス作曲家が書いた交響曲とも共通しています。しかし、従来のソナタ形式の「主題提示」-「展開」-「再現」の構成ではなく、動機や主題が相互に関係を持ちながら螺旋階段を登る様に転開していく形式で、ドビュッシー独自のもの。「海」によりドビュッシーは新しい音楽技法を発明したともいえます。それを「開かれた形式」と呼んだ、評論家もいました。 後にドビュッシーは「音楽」というものを「律動づけられた時間と色彩でできている」と説明しますが、この言葉は『海』にそのまま当てはまるばかりでなく、むしろ『海』を書いたことで、こうした考え方の裏付けになったとも言えるでしょう。『海』を作曲した時期は上記した様に、ドビュッシーは、個人的にかなり悩んでいました。それは妻を欺いて、他の夫人と恋仲になり浮気し、妻との離婚騒ぎ、妻の自殺未遂と相次ぐ問題から逃避するが如く、英国に近い海岸や島しょうに、浮気相手と逃避旅行にまで行ったのです。推察するに、ドビュッシーは、当然当時のフランス印象派の画家達の活躍ぶりは知っていた筈で、旅行したノルマンディーの海岸を見ながら、その海の風景と重なる多くの画家達の海の絵を思い出して作曲の糧とした事でしょう。

第一楽章 「海上の夜明けから真昼まで」

第二楽章 「波の戯れ」

第三楽章 「風と海の対話」

 此れ等の標題を並べてみると、何と印象派の画家達の表現しようとした命題と似通っているのでしょう。ドビュッシーは、印象派の絵を音で総括したかったのかも知れません。

 印象的なのは第三楽章の何回か(2回?)鳴り響くTrp.のファンファーレ、三管編成ですが、綺麗に揃っています。また、Hp伴奏に合わせて高々と吹き上げるFl. やOb.のソロ音、相当の腕前の名手と見ました。一方、弦楽アンサンブルは、高音弦、低音弦ともに、旋律の音量調節が絶妙、Hr.の音の後に聞こえたピアニッシモのVn.アンサンブルの繊細な響きは、心に染み込み、また恰もppからクレッセンドでアンプの音量調節ダイヤルをそっと右に回すが如きアンサンブルの変化は、お見事と言う他ありません。それを引き出すマケラの動きは、時には、少し無造作な動きに思われることもありましたが、彼のU-tub動画の言葉によれば、”楽団との一体的な練習をこなしているので、本番では奏者に任せている”といった趣旨の話しをしていました。もの凄く楽団員を信頼仕切っているのですね。

 

②ラヴェル『ボレロ』

 約15分の短い曲ですが、その短さは微塵も感んじず、大曲を聴いた後のような気分でした。 この曲は、次のような特徴を有しています。

  1. 最初から最後まで(最後の2小節を除く)同じリズムが繰り返される。
  2. 最初から最後までクレッセンドで、じわじわとせり上がる音
  3. メロディも2つのパターンだけ

これを見ると極めて単調な様に思われますが、実際の演奏は極めて豊饒なものなのです。曲は、スネアドラムによる後述のリズムが刻まれる中、フルートによって始まりました。フルート旋律演奏を終えるとスネアドラムと同じリズムを刻みクラリネットが同じメロディーを奏でます。このように、次々と異なった楽器構成によりメロディーが奏でられ、メロディーもリズムも次第に勢いを増していき、そして最後には、フルート、ピッコロオーボエオーボエ・ダモーレコーラングレ、クラリネット、ファゴットコントラファゴットホルントランペットピッコロ・トランペットトロンボーンテューバチェレスタハープヴァイオリンヴィオラチェロコントラバス、スネアドラム、バスドラムという大編成で、フルート単独の時と同じメロディーが奏でられる。圧倒的な重厚さで(並行3度や5度を組み合わせたりもしている)演奏すると、曲は初めて別ののメロディに移り、音量も最高潮を迎えた直後、最後の2小節で下降調のコーダで収束し、終焉を迎えるのでした。

『ボレロ』はラヴェルゆかりのスペインの民族舞踊であるにも関わらず、自筆スコアの研究ではトライアングルカスタネットが作曲過程で抹消され、逆にE♭クラリネットソプラノ・サクソフォーンが追加されるなど、民族色が消された上、ラヴェルが立ち会った録音では総譜の指示あるいは舞踊としての『ボレロ』よりテンポが遅いものばかりで、また指揮者のトスカニーニの実演に接したラヴェルは、そのテンポの速さに激怒し、トスカニーニと口論にまでなったといわれます。

 兎に角、マケラの演奏は大奮闘、大力演、圧巻のものでした。パリ管弦楽団の持ち味を最大限に引き出したマケラ最高の出来映えだと思います。当然客席は、大興奮状態、大きな拍手と歓声までとびかいました。

 

③ストラヴィンスキー/バレエ音楽「春の祭典」

 ストラビンスキーは、もともと、ロシアの没落貴族の家に生まれ、ロシアの大学を出てロシアで活躍した、作曲家、ピアニストでした。バレエ・リュスのセルゲイ・デアギレフの依頼で、バレエ音楽もいろいろ作り活躍していましたが、それが第一次世界大戦とロシア革命の影響によりロシアにもどれず、仕事上も収入も思う様にいかず困窮を極めることに。その時、援助の手を差し伸ばしたのが、パリ・ファション界の寵児ココ・シャネルでした。シャネルが音楽家のストラビンスキーとの接点もあったことは有名な話しで、言葉はわるいですが、一種の「援助交際」かも知れない。しかも、ストラビンスキー一人でなく、その妻も含む一家を援助したのでした。シャネルは、1920年に有名なバレエ団リュスの団長からストラビンスキーを紹介され、彼の一家がソ連から亡命して住居を探していると聞くと、パリ郊外の自分の新居に、新たな住居が見つかるまでの約8か月住まわせた。さらにシャネルは、ストラビンスキーの新作バレエ音楽『春の祭典』をバレエ団リュスが公演して赤字を出すと、それを資金援助し損失を補填するなど音楽事業にも大きな貢献をしていたのでした。現在のシャネル社もその伝統を受け継いでいます。シャネル銀座では、毎月「シャネルピグマリオン・コンサート」を実施してわわかい有能な音楽家を支える活動を実施しているようです。

 さて演奏の方は、下記に従って進行しましたが、この③の演奏の前に休憩があり、その時飲んだ一杯のシャンパンがいけなかった。カフェバーが久しぶりに再開したそうなので、試してみたのですが、それが、丁度効いてきたのか居眠りをかいてしまったのです。気が付いたら二部で、木管が不協和音的旋律を奏でている最中でした。そのあとは、Fg.が盛んに活躍して、間もなくチンチ~ンとトライアングルが背景音を出して、Fl.が鳴って終了となりました。それにしても Fl.奏者、うまかったなー!

 「春の祭典」は滅多にバレエ演目にかからないので、ネットで調べて映像を見ました。なかなか集団踊りが音楽にピッタリの振り付けで、躍る様子が面白くて何回も声を出して笑いながらみていました。パリのシャンゼリゼ劇場の公演だったと思います。

 

___________________ 記 _____________________________  第1部大地の礼賛

  1. 序奏
    リトアニア民謡 "Tu mano seserėle(私の妹よ)" をベースにしたファゴットの非常に高音域のイ調独奏で始まる(C2)。古典的な楽器法に精通したサン=サーンスが酷評したこの部分は演奏が大変困難であり、田村和紀夫はドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』冒頭のフルート独奏と共に、楽器の得意でない音域を敢えて使用するという作曲家の意思を読み取っている。既に変拍子の幕開けとなり、様々な管楽器が異なる調性で全く違うニュアンスのメロディーを激しく演奏する。高潮しきった所で曲は途絶え、ファゴットが再び最初の旋律を嬰ト調で演奏する。ブーレーズは論文『ストラヴィンスキーは生きている』において「最も異様、かつ興味深い語法」と評した。
  2. 春のきざし(乙女達の踊り)
    ホ長調主和音(E, G♯, B)と変イ長調属和音第1転回形(G, B♭, D♭, E♭)が複調で弦楽器を中心に同時に力強く鳴らされる同じ和音の連続とアクセントの変化による音楽。この和音構成は平均律上の異名同音で捉えると変イ短調和声短音階(A♭, B♭, C♭, D♭, E♭, F♭, G)と同じであるが、初めて聴くものには強烈な不協和音の印象を与える。また木管楽器によって対旋律として現れる(E, G, C, E, G, E, C, G)というスタッカートアルペジオはハ長調を示し、これによって五度圏上で正三角形を成し長三度ずつの移調関係にあるハ長調、ホ長調、変イ長調が結ばれる。これはベートーヴェンの後期三大ピアノソナタ(あるいはもっと前の『ヴァルトシュタイン・ソナタ』や『ハンマークラヴィーアソナタ』なども)においても転調の過程で順次提示されるように既に援用が見られる調関係だが、同時に鳴らすのは音楽史上この曲が初めてであろう。
  3. 誘拐
  4. 春の輪舞
  5. 敵の部族の遊戯
  6. 長老の行進
  7. 長老の大地への口づけ
    極めて短い。激しい不協和音が弦楽器のフラジオレットで奏される。
  8. 大地の踊り
    音楽は絶頂の中、終結句を伴わず突然終止する。

                  

 

第2部生け贄の儀式

  1. 乙女の神秘的な踊り
  2. 選ばれし生贄への賛美
  3. 祖先の召還
  4. 祖先の儀式
  5. 生贄の踊り(選ばれし生贄の乙女)
    最も難曲かつ作曲学上システマティックに書かれた部分。5/8, 7/8などの変拍子が組み合わされて徹底的に複雑なリズムのポリフォニーを作り上げる。オリヴィエ・メシアンはこの部分を「ペルソナージュ・リトミック(リズムの登場人物)」[ピエール・ブーレーズは「リズムの細胞」と、クラウス・フーバーは「リズムのクラスター」と呼んでそれぞれ分析結果を発表している。メシアンによればこの曲は、複雑な変拍子の中でそれぞれ提示されたリズム動機について、拡大する動機、縮小する動機、発展せず静的な動機の3つの類型のリズムから成り立つという

《参考》

ストラヴィンスキーの《春の祭典》の初演は、1913年5月29日、パリのシャンゼリゼ劇場でディアギレフ率いるバレエ・リュスによって初演された。このバレエは、有名な暴動を引き起こした。ストラヴィンスキーの前衛的な楽譜とニジンスキーの振付けに観客は激怒し、多くの人々が「まるで狂人の仕業のようだ」と考えた。

ストラヴィンスキーは、ディアギレフに誘われてバレエ・リュスのための作品を書いたときまだ、無名の若手作曲家であった。《春の祭典》は、《火の鳥》(1910年)、《ペトルーシュカ》(1911年)に続く、ストラヴィンスキーのバレエ・リュスのための第3のプロジェクトであった。

ストラヴィンスキーは《火の鳥》を作曲していた1910年には《春の祭典》のアイディアを思いついていたが、《ペトルーシュカ》を作曲するために1年間これを保留し、1911年の夏に《春の祭典》の作曲に没頭したのである。

ストラヴィンスキーがインスピレーションを得たのは、やはりロシアの民間伝承であった。春の到来を祝うさまざまな原始的な儀式の後、少女がいけにえとして選ばれ、死ぬまで踊り続けるのである。《春の祭典》の前衛的な楽譜は、音楽的にはあらゆる規則に反するものであった。

楽譜には、調性、拍子、解決せず緊張し続ける和声、そして不協和音(通常の和声の意味をなさない音の組み合わせ)の実験など、当時としては斬新な要素が多く含まれている。冒頭でファゴットが奏するリトアニア民謡「私の妹」の旋律からすでに楽器の音域的に厳しい(高すぎる)音が意図的に使用され、音楽はまったく前例のない方法でリズム的に複雑になっている。

さらに深いところでは、人間の感情を表現するという、多くの人にとって音楽の意味を与えているものを否定しているのだ。ストラヴィンスキーの言葉を借りれば、「《春の祭典》には、心の中を見つめる領域がない」ということになる。

1961年、イーゴリ・ストラヴィンスキーは、「《Le Sacre Du Printemps(春の祭典)》では、何のシステムにも導かれなかった」と書いている。「私には耳だけが頼りで、聞いたことを書いた。私は《春の祭典》を通過させた器にすぎない」という。

《春の祭典》の初演で、ニジンスキーの振付けは観客にとって本当に衝撃的だったようだ。彼らの足取りの重いステップは、伝統的で優雅なバレエとはかけ離れていた。

初演から1年後、パリで演奏会用の作品として初演されたとき、ストラヴィンスキーはファンに肩車されて大喝采を浴びたという。《春の祭典》は舞台用に作られた作品ではあるが、コンサートホールでより大きな影響を与えたというのが、多数の解説者による意見である。

《春の祭典》は、1913年の初演時にはスキャンダルを引き起こしたが、現在では20世紀の最も影響力のある音楽作品のひとつとして広く知られている。伝統的な作曲法による秩序立ったハーモニーや心地よい響きを大胆に否定したモダニズムの代表作となったのだ。レナード・バーンスタインは《春の祭典》を「20世紀で最も重要な音楽」と表現している。

 

〇アンコール演奏

ムソルグスキー『オペラ〈ボヴァンシチナ〉よりモスクワ川の夜明け』

『ホヴァーンシチナ』  は、ムソルグスキーの遺作オペラの一つです。題名は「ホヴァーンスキー事件(ホヴァーンスキー騒動)」の意。

 仲々しっとりしたいい曲でした。Va.アンサンブルから入り、続くFl.Fg.などの管楽器が、いいメロディを控え目な音量で鳴らし、Vc.からVn.も、細い絹糸の様な透き通ったアンサンブルの響きをたてていました。続くFl.のソロは、①や②の曲でソロを吹いた首席奏者などとは、別の奏者でしたか、これまた素晴らしく鳴らしていた。やはりパリ管弦は、管楽器の名手揃いですね。

また上記の弦楽アンサンブルの響きは、今日の①でも感じた弱音アンサンブルの魅力を十分堪能させるもので、先日聴いたラトル・ロンドン響のブルックナーにおける大音響アンサンブルの魅力とは、又一味違ったものでした。マケラが、若干20代で、この様な繊細な演奏を引き出すのですから、ボレロの迫力満点の演奏とも考え合わせると、やはり指揮者としての才能の片鱗を垣間見た気がした今回の演奏会でした。