HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

『自然と人のダイアローグ展』詳報at国立西洋美術館、Ⅰの②


Ⅰ.空を流れる時間

 Ⅰ.の②

(自然とアトリエ)

  前回Ⅰ-① では、ブーダンを中心として、リゾート地風景の写生画の中における「空を流れる時間」について観て来ました。彼は1824年、ノルマンディー地方、オンフレールに生まれ、11歳からル・アーブルで画家の見習いを始め、約10年後には現地で画材・画商店を開業、ミレーやウジェーヌ・イザベイ、トロワイヨン等と知り合って絵画を習い、2年後には絵画制作に専念し始めました。その拠点となったのが、故郷のオン・フレールのアトリエでした。自然全体を一種のアトリエの様に絵画制作の場としたブーダン達から印象派に連なる画家達、彼らは絵画の仕上げのためのアトリエでなく、制作現場である自然に溶け込んだアトリエを作りました。自然と調和したアトリエは、モネ(1840-1926)の例でも知られています。彼は1883年から暮らしたパリ近郊のジヴェルニーの土地を1890年に買い取り、本格的に庭の造成を進めました。やがて睡蓮の池に最良のモチーフ得た画家は、第一次大戦のさ中の1914年~1915年に<睡蓮>の大作制作のための天窓付き大型アトリエを自宅の横に建設しました。庭とアトリエを行き来し、時には巨大なカンヴァスを池のほとりに運び出して、制作をすることも有りました(この時の大作の<蓮>は後日松方幸次郎により買い取られ松方コレクション入り)。

   ウジェーヌ・ブーダンは1824年にフランスのノルマンディー地方に生まれたことは既にのべましたが、30歳を超えた彼は、モネとの出会いがあって、後にモネの師と言われるようになったのです。ブーダンは、ル・アーブルの文具店の店先に並んでいたモネのカリカチュアを見て才能を見出したといわれます。1859年、当時17~18歳のクロード・モネと出会ったブーダンは、モネに油絵を教えるべく戸外制作へと導き、自然の美しさ、そして変化する光の効果へとモネの目を開かせました。ブーダンが印象派の父のひとりと称される所以はここにあるのです。

 翌1859年にはギュスターヴ・クールベや詩人のボードレールともオン・フレールで知り合って意気投合し、1860年からはパリへとアトリエを移して「サロン」への出展を重ねるのでした。そしてついには1889年一般展で金メダルを受賞しました。

 このブーダンの存在が、モネの画家として大成する大きな要素の一つとなったことは明らかです。

 次の作品はモネが1897年57歳の時の作品で、海がざわざわと波立っている様子を見事に捉えています。


   現在のプールヴィルの海岸写真です、当時と若干異なる風景かも知れません.。

次の作品は1902年にロンドンのチャーリング・クロス橋を描いたもの。川面からの靄が夕方の日差しで桃色にけぶっているのでしょうか。


 次も同年ロンドン滞在時の作品で、テムズ河にかかるウォータールー橋を描いています。何れも印象派の特徴を芬々と出した作品ですね。これ等橋の連作は、モネがフランスの後期革命で当時動乱時期だったパリから一時ロンドンに避難した時に描かれたものです。テムズ河に面したサボエホテルの窓から見える橋を描いたとされます。

ウオータール橋、ロンドン

 次の作品は上記の作品達と一見かなり異なった画風に見えます。

『雪のアルジャントウイユ(1875)』

 1875年ですからモネ35歳の作品で。まだ印象派の画風を確立する前で伝統的な写実色彩が漂った作品となっています。モネはアルジャントウイユに滞在中に、アトリエの一種、「アトリエ船」を手に入れたらしい。そうした船の中から外の冬景色を描いたのでしょう。

 次はモネがやはりかなりの期間滞在して描いた一枚です。

『ルーアン大聖堂のファサード<朝霧>』

 ルーアンはパリから約140km北西の古い都市、改築されたルーアン大聖堂があることで有名です。モネはこの大聖堂が大変気に入り街に滞在して何枚も何枚も作品を書き続けたといいます。先のロンドンの橋の絵も含め、朝霧に靄を被った構造物を描くのが好きだった様ですね。

 上記の雪景色とルーアンで思い出しました。モンサンミッシェルに観光旅行した時のことを。モンサンミッシェルは何回か行ったことがあるのですが、鉄道(TGV)で行くとバスの乗換えが必要で、結構煩わしく、ある時パリからの直行観光バスで行くことにしたのです。乗車賃も少し安かったかな?ところが季節は冬に入っていた時期で前日は少し雪が降り、当日も降り続いていました。運航中止かなと思いながらバスターミナルに行ったら、それ程の降雪でなく、幹線道路は除雪しているので大丈夫だという事で出発進行。載っていて確かに道路は薄っすら白くなっていますがタイヤの跡が黒っぽく見えたので、大丈夫だと思っていました。ところがモンサンミッシェルに近づくにつれ、雪がどんどん降って来て、もう少しで(多分数キロだったと思います)目的地に着くという地点で、道路は通行止めになっていました。バスは引き返すしか有りません。引き返すと言っても料金は払い戻しの対象になるかどうか分かりません。と前の運転席の方を見ると、あるムッスューが運転手と車掌さんに話し合っています。何か掛け合っている様子。運転手は携帯で何処かとやり取りをしています。暫くして車掌さんからアナウンスがあって、目的地のすぐ近くまで来たのだけれど、雪で交通止めだから絶対進めない、モンサンミッシエルには行けない。パリに戻っても運賃の払い戻しは出来ない。そこで提案だが、少し戻って西にある道路をすこし行けば、ルーアンに行けるので、賛成の人は挙手して欲しいといった趣旨のことを話したのです。そしたらほとんどの人が賛意を表明して、結局モンサンミッシェル観光からルーアン観光に急遽変更になったのでした。ルーアンまでは1時間はかからない数十分の道行きだったと思います。街には雪は全然積もっていない。この街には、ジャンヌ・ダルクの火刑に処された箇所が目抜き通り沿いにありました。かなりの美味しいそうな食品(肉、魚、ケーキ、お土産etc.)のお店が並んでいます。何よりもこの街の目玉は、ルーアン大聖堂、街の何処からでもその上部は見えました。近づくとパリのノートルダムよりは一回り小さいかなという気もしましたが、堂々とした大聖堂が広場の前に建っています。広場の対面には数階建ての土産物屋さんがあり、ドリンク、本なども売っています。コーヒーを買って店の老人にモネのことを聴いたら、その土産屋の二階に長期滞在して大聖堂を描いていたとのことでした。モネはノルマンディーの海岸を描いた時と同じように、アトリエとしてその建物を使っていたと思われます。

 そういう訳で、思いがけず初めてジャンヌ・ダルクの最後の地を巡ることが出来て、モネの事も色々と分かり、何分フランスの古都の一つを見ることが出来て、同行した家内は美味しいお菓子と料理に舌つづみを打ち、「災い転じて福となす」、モンサンミッシェルに行くよりも良かったと話している人が多かったバスの旅でした。