【主催者発表文】
2020年コロナ禍で延期になった、ラトル&ロンドン響による最後の来日公演決定!
ベルリン・フィルの音楽監督を経て今や押しも押されぬ、世界を代表するマエストロとなったラトルの当劇場への来演は、今から遡ること31年前、開館直後にメシアン『トゥーランガリラ交響曲』(前半にはヴァーレーズの”砂漠”!)を引っ提げ登場したバーミンガム市響による公演である。その後94年10月には、同オケでアルゲリッチと共に来日公演(プロコフィエフのピアノ協奏曲とショスタコーヴィチ交響曲第15番!)を行い、彼ならではの挑戦的な(当時としては)プログラムを明確なヴィジョンと驚くほどクオリティの高い演奏で、東京のコンサートゴアーの度肝を抜いてきた。それから30年余り…世界を席巻したラトルがいよいよ満を持して、イングランドのトップオーケストラ、ロンドン響と共に芸劇に戻ってくる。曲目は当劇場コンサートホールの音響空間に相応しい大曲、ブルックナー交響曲第7番をメインにしたプログラムである。前半にはベルリオーズの序曲『海賊』、ドビュッシーの劇音楽『リア王』と知られざるフランス音楽と共に、ラヴェルの代表作の一つ『ラ・ヴァルス』が前半のメインとなり、当コンビによる最終ツアーとして、2部構成の豪華プログラムを実現。ラトルは7番を2013年のベルリンフィル来日公演でも取り上げており、最も得意とする楽曲の一つ。まさに至極の音楽体験を得られる一期一会の機会である。
【日時】2022.10.7.(金)19:00~
【会場】池袋・東京藝術劇場
【管弦楽】ロンドン交響楽団
【指揮】サー・サイモン・ラトル
【曲目】
①ベルリオーズ/序曲『海賊』作品21
(曲概要)
序曲『海賊』(かいぞく、仏:Le corsaire)作品21、H.101は、エクトル・ベルリオーズが作曲した管弦楽のための演奏会用序曲である。ベルリオーズが地中海沿岸の保養地ニース(当時はサルデーニャ王国領、現在はフランス領)に滞在中、ジョージ・ゴードン・バイロンの物語詩『海賊(英語版)』に触発されて、1844年に作曲された演奏会用序曲である。作曲当初のタイトルは『ニースの塔』とされていたが、『赤毛の海賊』と改題し、さらに改訂が施された後に、1852年に出版する際に現在のタイトルである『海賊』と変更されている。初演年は1845年1月19日、パリのシルク・オランピックにてベルリオーズ自身の指揮によって行われた。バレエ音楽「海賊」とは別な曲で、作曲家も異なる。
②ドビュッシー/劇音楽『リア王』から「ファンファーレ」「リア王の眠り」
(曲概要)
「ファンファーレ」は、4本のホルン、3本のトランペット、スネアドラム、ティンパニと2台のハープのために書かれています。
ファンファーレは清よらかで美麗な香りを残した音楽で、ヴォーン・ウィリアムズ最盛期の作品と非常によく似た印象を与える。リア王の眠りは、官能的な音楽。明晰な音に釣り合った明晰な演奏がされると、前者ではファンファーレを殊更に意識した曇りの無いひびきを印象付け、後者では管弦楽のための夜想曲(雲)を想起させるような繊細さを感じる曲。王の眠りは転じてドビュッシーらしさの前面に現れた和声が印象的。
③ラヴェル/ラ・ヴァルス
(曲概要)
管弦楽のための舞踏詩『ラ・ヴァルス』(仏: La Valse, Poème chorégraphique pour orchestre )は、モーリス・ラヴェルが1919年12月から1920年3月にかけて作曲した管弦楽曲。作曲者自身によるピアノ2台用やピアノ独奏用の編曲版もある。タイトルの「ラ・ヴァルス」とは、フランス語でワルツ(「ラ」は定冠詞)のことであり、19世紀末のウィンナ・ワルツへの礼賛として着想された。ラヴェルの親友であったピアニスト、ミシア・セール(Misia Sert、1872年 - 1950年)に献呈されている。
なおこの曲は、作曲者自身によりピアノ2台用やピアノ独奏用に編曲されている。
④ブルックナー/交響曲第7番 ホ長調 WAB107(B-G.コールス校訂版)
〈ブルックナーについて〉
1824年9月4日、学校長兼オルガン奏者を父としてオーストリアのリンツにほど近い村アンスフェルデン(ドイツ語版、英語版)で生まれた。この年はベートーヴェンが交響曲第9番を、シューベルトが弦楽四重奏曲第14番『死と乙女』を書いた年である。しかし同じオーストリア帝国とはいえ、アンスフェルデンのブルックナー少年の生活は首都ウィーンの華やかな音楽史とは無関係なものであった。幼少期から音楽的才能を示したブルックナーは、10歳になる頃には父に代わって教会でオルガンを弾くほどになった。11歳になる1835年の春に、ブルックナーの名付け親で同じくリンツ近郊の村であるヘルシングのオルガニストだったヨハン・バプティスト・ヴァイス(Johann Baptist Weiß)のもとに預けられ、ここで本格的な音楽教育を受け、通奏低音法に基づくオルガン奏法や音楽理論を学ぶ。またこの時期にハイドンの『天地創造』『四季』、モーツァルトのミサ曲などを聴く機会を持つ[3]。12歳で父を亡くしたブルックナーは、その日に母に連れられて自宅から8キロほど離れたザンクト・フローリアン修道院(ドイツ語版、英語版)の聖歌隊に入った。オーストリアの豊かな自然と、荘厳華麗なバロック様式の教会でのオルガンや合唱の響きは、音楽家としてのブルックナーの心の故郷になり、トネルルの愛称で親しまれた。
1840年、16歳のブルックナーはリンツで教員養成所に通った。小学校の補助教員免許を取得すると、翌1841年10月、ヴィントハーク(ドイツ語版、英語版)というボヘミアとの国境近くの小さな村の補助教員となる。ここでは授業のほかに、教会でのオルガニストや、畑仕事を手伝うかたわら、農民たちの踊りにヴァイオリンで伴奏するなどしていた。またこの時期バッハの『フーガの技法』を研究した。ブルックナーの交響曲のスケルツォに色濃く現れる農民の踊りの気分は、このころの体験によるものといわれる。しかし洗練された修道院育ちのブルックナーにとっては、田舎のあまりに退屈な生活と、教職とは名ばかりの雑用や畑仕事に嫌気が差し、肥やし撒きという屈辱的な仕事を拒否した事件がきっかけで、上司アルネトの判断でクローンシュトゥルフ(ドイツ語版、英語版)という新たな任地へ転勤することとなった。故郷アンスフェルデンやザンクトフローリアン、州都リンツからもそう遠くなく、また徒歩で通える近くの街エンス(ドイツ語版、英語版)で作曲家でオルガニストのレオポルト・フォン・ツェネッティ(英語版) (1805–1892) に習うことができた。ここではまた最初の合唱曲の多くが作曲された。そして校長登用試験に合格したブルックナーは、1946年(21歳)少年時代を過ごしたザンクトフローリアン修道院の教師となって帰ってきた。1851年、27歳で修道院のオルガニストの地位を踏襲した。
1855年、リンツ大聖堂の専属オルガニストが空席となり、登用試験が行われた。ブルックナーは試験の観客としてそれを聴きに行ったが、フーガ即興課題で他の受験者たちの冴えない演奏に痺れを切らした審査員の一人デュルンベルガーは、客席にいたかつての弟子ブルックナーを見つけて演奏するように焚きつけた。ブルックナーは素晴らしい演奏を披露して、受験者と審査員たちを圧倒させた[6][8]。こうして思いがけずリンツ大聖堂オルガニストという大職の座を勝ち取り、オルガニストとして成功していったブルックナーは、ミサに必要である即興演奏の技術に長け、オーストリア国内やドイツ文化圏でその名声を築き、十分な収入を得ていった。一般に大聖堂のような要職のオルガニストたるものは、既存曲の演奏だけでなく即興演奏、しかもその場で与えられるテーマ(試験ではその場で旋律が与えられるが、日常ではミサの中で司祭や会衆の歌う聖歌の旋律の断片)をもとにフーガをその場で即興的に「作曲」しなければならない。ブルックナーは当時すでに優れたオルガニストであった、ということは優れたフーガ作曲家。例えば後年の『交響曲第5番変ロ長調』(1876年)の第4楽章では長大なフーガが展開し、ブルックナーがフーガの達人であることを窺い知れる。
しかしその傍ら、改めて作曲を学びたいと思い立ち、同1855年(31歳)から1861年(37歳)までの6年間、待降節と四旬節でオルガニストの出番がない時期を利用してウィーンに出かけ、かつてシューベルトが最晩年に師事したジーモン・ゼヒターに和声法と対位法を習った。この期間ゼヒターは、ブルックナーに一切の自由作曲を禁じていたという。ゼヒターからブルックナーへの手紙には、「これまで私の教えた中であなたほど熱心な生徒を持ったことはない」と評されている[6][9]。ゼヒターから修了の免状を受けた後、同年1861年から1863年(39歳)まで自分より10歳も若いオットー・キッツラー(ドイツ語版)に楽式(三部形式やソナタ形式などに沿った作曲の練習)や管弦楽法を学んだ。オルガニストから作曲家に転換したブルックナーの作曲の修行過程は、極めて晩学で特異なものであった。
それまでブルックナーはバッハを規範とするフーガや教会音楽の形式には長じていたが、ソナタ形式をはじめ、ワルツ、マズルカ、マーチそしてスケルツォといった、世俗的だが田舎の農民の祭りでの伴奏とは、明らかに異なる同時代の都会の演奏会用音楽、そしてそこで規範となるベートーヴェンの音楽様式を、キッツラーのもとで初めて学んでいった。さらに1863年ごろからキッツラーの影響でリヒャルト・ワーグナーに傾倒し、研究するようになる。ベートーヴェンの交響曲はリンツの友人モーリッツ・エドラー・フォン・マイフェルトとその妻ベッティーによるピアノ連弾によって彼らの家のサロンコンサートでたびたび演奏され、ブルックナーは頻繁にそれらを聴く機会に恵まれた。さらに1867年3月22日、ウィーンでヨハン・ヘルベックの指揮で聴いたベートーヴェンの『交響曲第9番』にも強い影響を受けた。この時期のブルックナーの習作は、「キッツラーの練習帳」にまとめられており、その最後は『交響曲ヘ短調(第00番)』(1863年)のスケッチで終わっている。このヘ短調交響曲は習作として世に出すことはなく、死後発表された。またこの頃、『ミサ曲第1番ニ短調』(1864年)、『ミサ曲第2番ホ短調』(1866年)、『ミサ曲第3番ヘ短調』(1867-1868年)が作曲された。ベートーヴェンの交響曲の研究は、学習時代のみならず後年になるまで続けられ、1876年にはすでに第5番まで(番号なしの2曲を含めて7曲の)自身の交響曲を書いていたにもかかわらず、ベートーヴェンの交響曲第3番、第9番、第4番を分析していることが日記手帳に記されている。
1868年には、ゼヒターの後任としてウィーン国立音楽院の教授に就任し、リンツ大聖堂の職を2年兼任したのちに辞してウィーンに移住した。オルガニストとしての仕事は、ウィーン・ホーフブルク宮殿礼拝堂の宮廷オルガニストおよびウィーン北部郊外のクロスターノイブルク修道院で継続した。またフランスのナンシーおよびパリ・ノートルダム大聖堂にもオルガンの演奏旅行をし、そのフーガ即興演奏はサン=サーンス、フランク、グノーらに絶賛された。さらにはロンドンでオルガンの演奏コンクールに参加し、第1位を得た。この時、ケンブリッジ大学の博士号がもらえるという話を持ちかけられ、金銭詐欺にあった。またイギリスを発つ帰りの船に乗り遅れたが、その船は沈没してしまい、ブルックナーは間一髪で災難を逃れることとなった。
このようにオルガニストとしての確固たる地位を得たブルックナーは、それ以降大部分のエネルギーを交響曲を書くことに集中させた。初期の作品には『交響曲第1番ハ短調』(1866年)『交響曲ニ短調(第0番)』1869年)『交響曲第2番ハ短調』(1872年)がある。
ブルックナーはベートーヴェンの『交響曲第5番ハ短調(運命)』と『交響曲第9番ニ短調(合唱付)』に深く傾倒していたため、自身の交響曲第1番でハ短調を選んだ後はニ短調の交響曲を書くつもりでいたが、交響曲ニ短調は自身の出来栄えに自信が持てず、発表することがなかった。表紙に「無効」「0」と書き込んだため、通称「第0番」と呼ばれている。これも死後発表された。結局ニ短調交響曲を世に出さなかったことと、交響曲第1番も当分は初演の見込みが立たなかったので、当初は変ロ長調の新たな交響曲(と題されてはいるが、わずか数ページのピアノスケッチ)を書き始めたがすぐに放棄され、交響曲第2番は再びハ短調を選択した。ウィーンの聴衆へのデビューとなる交響曲は何としてもハ短調でなければならないという強いこだわりがあったためである。この曲に限らずブルックナーの交響曲は全般的にそうであるが、ウィーンの聴衆の前に初めて姿を現したブルックナーの交響曲であるこれは、ゲネラルパウゼ(総休止)があまりに多用されるため「総休止交響曲」と揶揄された。最初ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に献呈を申し出るも断られ、後に下記のワーグナーへの第3番の献呈よりも後にリストに献呈を申し出たものの、リストはウィーンのホテルにその楽譜を置き忘れた上、後から言い訳のような固辞の手紙をブルックナーに送ってきた。ブルックナーは落胆し、交響曲第2番は最終的に誰にも献呈していない。
ブルックナーは1873年8月31日にリヒャルト・ワーグナーとバイロイトで会見する機会を得た(実際には初めてではなく、それ以前に『タンホイザー』のミュンヘン公演で一度会見している)。多忙なワーグナーは最初ブルックナーの話もそこそこに追い返したが、ブルックナーが置いていった交響曲(完成した第2番と、新作の第3番の草稿)の楽譜を一瞥したワーグナーはすぐにその真価を悟り、慌てて街中に出て探した末にバイロイト祝祭劇場工事現場に佇んでいたブルックナーを見つけて呼び戻し、自宅で夕食に招いてもてなした。この際に『交響曲第3番ニ短調』を献呈し、ワーグナーの好意を得る。しかしこの行動は反ワーグナー派の批評家エドゥアルト・ハンスリックから敵対視され、批判を浴びせられ続けることになった。この時期『交響曲第4番変ホ長調』(1874年)、『交響曲第5番変ロ長調』(1876年)を作曲する。
1875年からウィーン大学で音楽理論の講義を始めたが、最初のうちは無給の名ばかり職だった。1876年に第1回バイロイト音楽祭に出席し、ニーベルングの指環の初演を聴く。このときに今までの自らの作品を大幅に改訂することを決意し、いわゆる「第1次改訂の波」が起こり、交響曲第1番から第5番が大幅に改訂された。1877年の交響曲第3番の初演はその長い演奏時間に大半の聴衆が途中で退出してしまい不評に終わったが、一方で最後まで聴いていたわずかな聴衆の中には青年時代のマーラーもいた。またマーラーはウィーン大学のブルックナーの講義にも訪れている。次作の『交響曲第4番変ホ長調』(1874年初稿完成、1875年リンツ初演、1878年改訂・ウィーン初演)は好評をもって迎えられ、交響曲作曲家としてのブルックナーの名声を確立する作品となった。
1880年頃になるとウィーンでのブルックナーの地位も安定してくる。無給だったウィーン大学の講義に十分な俸給が支払われるようになったのをはじめ(この有給化を大学当局に働きかけたのは、意外にも敵対していた批評家エドゥアルト・ハンスリックであった)、多くの教授職、さまざまな協会の名誉会員の仕事により年間2000グルデン(当時の平均的な4人家族の収入が700グルデン)の収入を得るようになる。この頃の代表作には『弦楽五重奏曲ヘ長調』(1879年)『交響曲第6番イ長調』(1881年)『テ・デウム』(1881年)『交響曲第7番ホ長調』(1883年)がある。なかでも『テ・デウム』と『交響曲第7番』は成功し、一気にブルックナーの名を知らしめることになった。
1884年からは『交響曲第8番ハ短調』の作曲に集中する。1887年に一旦完成し、芸術上の父と尊敬していた指揮者ヘルマン・レーヴィに見せるが、彼からは否定的な返事が来た。弟子たちもこの作品を理解できず、落胆したブルックナーは再び自らの作品を改訂する。いわゆる「第2次改訂の波」である。これにより交響曲第1、2、3、4、8番が改訂された。結局、1892年の第8番の初演は成功した。1891年にはウィーン大学から名誉博士号が授与され、その式典で学長は「ウィーン大学学長である私は、今日かつてのヴィントハークの小学校教論の前に頭を垂れる」と演説した。ブルックナーは返礼として、交響曲第1番をウィーン大学に献呈した。
晩年のブルックナーは多くの尊敬を得ていたが、死の病に冒されていた。長年の宮廷オルガニストであったブルックナーが、ヘス通り2番地の4階建て(日本式に言うと5階)最上階の家の階段の昇降が困難になっていることを皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(交響曲第8番の献呈も受けている)が聞きつけ、ベルヴェデーレ宮殿の敷地内の上部宮殿脇にある平屋建て(入り口は平屋に見えるが、実際はそれより低い位置から建つ3階建ての建物の最上階である)の宮殿職員用の住居を皇帝より賜与され、死の日までそこに住んだ。この時期には『交響曲第9番ニ短調』(第3楽章まで、第4楽章は未完成)や『ヘルゴラント』(1893年)、『詩篇第150番』(1892年)が作曲されている。
ブルックナーは1896年10月11日の朝まで交響曲第9番第4楽章の作曲の筆を握っていたが、その日の午後に72歳で死去した。その日が日曜日であり宮殿内の職員住居で多くの人が集まりやすかったこと、ブルックナーが独身で身寄りがなく回収業者が出入りしたことから、草稿の多くはこの時に散逸した。一部はアメリカに渡り、のちにワシントンD.C.や、コロンビア大学図書館の収蔵物から発見されたりした。
3日後の10月14日にカールス教会で行われたブルックナーの葬儀では、交響曲第7番第2楽章が弟子のフェルディナント・レーヴェによりホルン四重奏に編曲されて演奏された。
遺言に基づき、ザンクト・フローリアン修道院の聖堂にあるオルガンの真下のクリプト(地下墓所)にブルックナーの棺が安置されている。
(曲概要)
本作は交響曲第6番の完成後すぐ、1881年9月末から第1楽章の作曲が開始された。 スコアは第3楽章スケルツォの完成のほうが1882年10月と少し早く、第1楽章のスコアは同年の暮れに完成する。
第2楽章の執筆中は最も敬愛してきたリヒャルト・ワーグナーが危篤で、ブルックナーは「ワーグナーの死を予感しながら」書き進め、1883年2月13日にワーグナーが死去すると、その悲しみの中でコーダを付加し、第184小節以下をワーグナーのための「葬送音楽」と呼んだ。こうして第2楽章のスコアは同年4月21日に完成する。そして、1883年9月5日に全4楽章が完成した。
1884年12月30日、アルトゥル・ニキシュ指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によりライプツィヒ歌劇場で初演された。この初演の段階でブルックナーとニキシュは入念な打ち合わせを行い、何度か手紙をやりとりしている。
彼の交響曲中、初めて、初演が成功した交響曲として知られている。1884年のこの初演以来、好評を博しており、第4番と並んで彼の交響曲中、最も人気が高い曲の一つである。第4番のような異稿は存在しないが、第2楽章の打楽器のようにハース版とノヴァーク版では差異が生じている箇所がある。
この曲の初演が大成功したことにより、ブルックナーは生きている間に交響曲作曲家としての本格的な名声を得ることができた。
【演奏の模様】
今日がラトル『ロンドン交響楽団』の京浜地区での最後の演奏会になりました。則ちラトルとロンドン響との組み合わせでは、東京ではもう永遠に聞けないという事を意味します。万難を排して聴きに駈けつけました。プログラムは休憩を挟んで前半がフランス音楽、後半がブルックナーの大曲です。
①ベルリオーズ/序曲『海賊』
初盤の綺麗な旋律が印象的でした。分厚いオーケストラの寸部の隙も無い響き特に弦楽の流れが非常に流麗。
テンポの速いパッセージも一糸乱れず見事に音が完全一致し、低音弦がずっしりと腹に響きます。かなり面白いとも思われるベルリオーズらしい旋律の動きを一気に駆け抜けました。短い曲ですが、大曲を聴いた後の様なインパクトあり。
②ドビュッシー/劇音楽『リア王』から
1「ファンファーレ」
2「リア王の眠り」
この曲はラトルがバーミンガム市交響楽団の頃より演奏していて録音も出している得意な曲なのでしょう。
1は文字通り金管のファンファーレが一致して朗々と鳴り響き、オケが続き、打楽器が下支えをする。続いてファンファーレの変奏曲的調べが暫く流れ、一貫して金管主導ですぐに終了。
2では、弦楽アンサンブルが幻想的に続いて管が入り減の響きは何かを夢想するが如きドビュシー得意の技法をロンドン響は見事に抉り出していました。
③ラヴェル/ラ・ヴァルス
この曲には、ラヴェル自身によって付けられた標題があり、それは、次の様なものです。
「渦巻く雲の中から、ワルツを踊る男女がかすかに浮かび上がって来よう。雲が次第に晴れ上がる。と、そこから、渦巻く群集で埋め尽くされたダンス会場が現れ、その光景が少しずつ描かれていく。フォルティッシモの箇所でシャンデリアの光がさんざめく。1855年ごろのオーストリア宮廷が舞台である。」
ラトル『ロンドン響』の演奏は一丸となって大波を繰り出し、あたかもサーファーが何回も何回も見事に波を乗り越えて辿り着いた所は穏やかに日の当たる浜辺、波も収まりゆっくりと呉れる日を見ながらダンスの素振りをするが如きイメージを抱くことも有りかな? ❝なかきよのとおのねふりのみなめざめなみのりふねのおとのよきかな❞
ラベルという人は、余程エネルギーを蓄積(いやエネルギーが内部から噴火)している人なのでしょう。この曲も、あの有名な『ボレロ』と同じで、次第に湧き上がる情熱を抑え抑えして進むうちに(この曲では踊るうちに)遂には爆発的に動きとスケールが拡大して最高潮になったかと思うと、急激に衰退してしぼんでしまう途を辿るのです。
ロンドン響は、その波のうねりを強弱長短明暗大きなメリハリをつけて演奏するのでした。聴く方も手に汗握りワルツを躍る思いで、演奏が終わった時は、両者とも(疲れて)大きな虚脱感に襲われたかも知れません。
④ブルックナー『交響曲第7番 ホ長調(コールス校訂版)』
今日の演奏会は、ブルックナーのこの曲を聴きに来たと言っても過言では有りません。
休憩の間に、楽器配置特に管の配置ががかなり変わった様子。一番高い奥にTrp.Trb.などの金管が三管で並び、HR.は右サイドに移動して5人並び、その斜め後ろ奥にワーグナーTub.(※)が4人、木管は数が少なく二管。低音弦は相変わらず数が多くCb.8人、Vc.8人
ⅰ. Allegro moderato
ⅱ. Adagio. Sehr feierlich und sehr langsam
ⅲ. Scherzo: Sehr schnell
ⅳ. Finale: Bewegt, doch nicht schnell
全体的にアンサンブル、特に弦楽アンサンブルの響きは(ロンドン響+ブルックナー)効果で、ちょっと例を見ない位の物凄さになっていました。その響きたるや形容する言葉も残っていないくらい。チャイコフスキーの弦楽セレナーデのうねりか?マーラーの金管の響きか?いやそれ以上の何かと言うしか有りません。これは考えるに、ブルックナーのオルガニストとしての長いキャリアがなせる技ではないでしょうか。あの管弦全奏強奏の時、通常だった騒然とする混沌さを豪も感ぜさせず、澄み切った透明感のあるアンサンブルはパイプオルガンの音の組合せとストッパー一つで音色を急変出来るしかもそれらの合成を(自分で作るのではないですが)素晴らしい調和に至らせているブクステフーデやバッハやその他の先人のオルガン曲の響きを、すべて体に滲み込ませていたブルックナーならではのアンサンブルの響きの発出なのでしょう。勿論この様な大きな音の場面だけでなく、例えば第二楽章の落ち着いた静かとも言える流麗なアンサンブルでも、フーガ的調和を良く理解していたブルックナーならではの和声の進行を可能としたのでしょう。
この第二楽章はブルックナーの遺言でHr.で演奏され、その遺体が葬送されたそうです。自分でも余程気に入っていたのでしょうね。ロンドン交響楽団のこの二楽章を聴いてやはり素晴らしい楽章だと思いました。
(※)Wagner tuba、(ワーグナーチューバとも言われる)は、オーケストラで稀に見かける中低音域の金管楽器であり、主にホルン奏者が持ち替えて演奏する。外観は、ドイツや東欧の吹奏楽に用いられるテノールホルンやバリトンとよく似ているが、使われる
マウスピースや楽器の構造が異なる。
B♭/F管ダブル・ワーグナー
チューバ(アレキサンダー社製)
演奏が終わったラトルは挨拶をするとすぐに演奏者に駆け寄りましたが、先ず真っ先に、ワーグナーチューバの奏者の所に行ってねぎらっていた。それから次ぎ次ぎに奏者を立たせ、観客は大きな拍手で讃えていました。オーボエのコッホさんも今日の後半はいた様です。また首席フルートは相当な達人と見ました(初日のミューザの時も良かったと思ったのですが同じ奏者かどうかは不明)。各パートに達人、名人を揃えているのでしょう。そうした人たちが繰り出すアンサンブルですから、推して知るべしです。演奏が終わっても、奏者が舞台から散り消えた後も鳴りやまぬ拍手にラトルは何回か戻って来てブルックナーの楽譜を手にして掲げ、作曲家をたたえていました。拍手は一層大きくなりました。
今日の藝劇の演奏で、東京から去るラトルとロンドン交響楽団はどんなにか感慨深いものがあるか察するに余りあります。どうしようかなとも思ったのですが、今日も聴きに来てホントに良かったと満ち足りた気持ちで帰路につきました。