昨夜(3/18金)、《東京春音楽祭》のオープニングを飾る管弦楽団の演奏を、無事来日したムーティが指揮しました。それを聴きに行った記録を書きました。今日(3/19土)の『ベルリン・フィルメンバー室内楽』も行こうと思っていたのですが、中止になってしまいました。樫本さんを聴きたかったけれど、その内また機会があるでしょう。
【日時】2022.3.18.19:00~
【会場】東京文化会館
【管弦楽】東京春祭オーケストラ
【指揮】リッカルド・ムーティ
【曲目】
①モーツァルト『交響曲 第39番 変ホ長調 K.543』
②シューベルト『交響曲 第8番 ロ短調 D759《未完成》』
③イタリア風序曲 ハ長調 D591
【曲目解説】(プログラム・ノート)
18世紀末から19世紀初頭にかけて、社会も音楽も大きく変わった頃、W.A.モーツァルトや F.シューベルトといった作曲家がウィーンで大いに活躍した。かの地は今もなお「音楽の都」である。この二人の天才は違いも大きいが、“歌”にあふれた旋律をベースに流麗で活気ある音楽を作り上げた点など、通じるところも多い。ムーティが指揮するにはぴったりの作曲家であり、だからこそマエストロはウィーン・フィルでもこれらの作品をしばしば取り上げている。
①モーツァルト『交響曲 第39番 変ホ長調』
モーツァルトは1788年頃、生涯最後の三つの交響曲をわずか数週間で作曲した。演奏目的は不明であるが、質・規模ともに群を抜く3曲をこれだけの短期間で作曲するとは、その創造力たるや恐るべし。
第39番の「変ホ長調」という調性は《魔笛》と同じ。あの奇跡的至純を達成したオペラの雰囲気が、ここにも横溢している。とりわけモーツァルトが愛したクラリネットの使用が、全体にふくよかさをもたらしている。
第1楽章は厳かな序奏から、虹のような旋律とともに晴れやかなアレグロに突入し、対位法的な書法を交えて変化に富んだ展開を見せる。第2楽章は優雅なアンダンテ。続く愉しげなメヌエット楽章の中間部では、クラリネットが素朴な旋律を奏でる。フィナーレは無窮動風のソナタ形式で、たくましく活発に曲が締めくくられる。
②シューベルト『交響曲 第8番《未完成》』
シューベルトの楽曲の中でも特に有名な1曲(シューベルト新全集では「第7番」となっている)。この曲に限らず、ピアノ・ソナタなどでも“未完成”が多いシューベルトだが、大地の底から楽想が湧き出るようにペンを走らせた天才にとって、その勢いこそが全体を統合・完結させることを阻んだのかもしれない。 1822年に作曲を始めた(らしい)本作は、恐ろしいほど透徹した美しさ、深い抒情を湛えた二つの楽章をもって“完成”している、と思わざるを得ないのも事実。そこには新しい装いをまとった古典的佇まいがある。 両楽章とも3拍子で書かれている。低弦によって呟くように始まる序奏はその後、何度か現れるが、それによって第1楽章は不穏な空気を醸す。木管による第1主題に続く、弦楽器群によって低音から高音に引き継がれる第2主題の何たる美しさ! しかしこれも突然の休符によって断ち切られる。シューベルトは、ブルックナーの交響曲を先取りしたような休符を使うことが多いが、それが“歌う”音楽の美しさに、死の想念にも似た影を落とす。
第2楽章の不思議な転調を伴う天国的な音楽のなかにも、ドラマティックなパトスが顔をのぞかせる。あたかも終わりを告げるのをためらうかのように、美しい旋律が幾度も繰り返され、静かに曲が閉じられる。
③シューベルト『イタリア風序曲 D591』
この曲を初めて聴いて、シューベルトの音楽とわかる人がどれくらいいるだろうか。たいていは「ロッシーニの曲?」と思うのではあるまいか。19世紀初頭のウィーンでは、イタリアの作曲家ロッシーニの旋風が吹き荒れ、そのオペラに老いも若きも夢中だった。
シューベルトも例外ではなかったであろう。この序曲も、たっぷりした序奏から活気あるアレグロまで、まさに“コン・ブリオ”たること、ロッシーニの音楽そのものである。木管楽器のソロの輝きはもちろん、同じフレーズを繰り返しながら盛り上げていく手法(いわゆる「ロッシーニ・クレッシェンド」)まで用いられている。なお「イタリア風序曲」というタイトルは、本人がつけたものではなく、友人がそう呼んでいたらしい。同時期に書かれた同じ題名の曲が二つあり、本作はその2曲目。
【演奏の模様】
①モーツァルト『交響曲 第39番 』
モーツァルトの三大シンフォニーの一つです。全体的に安定感があり、モーツアルト風調べを満喫できました。器楽構成は、もともと管が二管構成よりかなり少なく、Ob無し、Fl.(1) Cl.(2) Fg.(2) Hr.(2) Trp.(2) 弦楽五部(10-10-8-6-6)。Ob奏者がいないオケ演奏は最近あまり見ません、珍しい。
第1楽章.Adagio; Allegro
高音弦のアンサンブルは、粒が揃って綺麗に響いていましたが、それに比し低音弦がやや弱いかな?弦楽全体アンサンブルの中でずっしりとした重し感が軽め。 低音弦構成は、Va(8) Vc(6) Cb(6)だったと思います。でもCbは二梃放置されていたので、増やすことも出来たのでしょう。前もって聴いておいたバーンスタイン・ウィーンフィルの映像だと、Va(8) Vc(8) Cb(8)で低音の迫力がありました(1Vn(12) 2Vn(10))。
冒頭のFl.の合いの手の音が弱い、もやもやと聞こえた。Hr. Cl. Fg は卒なく出していました。最初から最後までTimpがほど良い支えをしていた。 弦楽が金管群もまじえ、最後勢いよく元気一杯に章終。
第2楽章.Andante con moto(12:26)
冒頭から高音弦の滑らかな調べが広がり何回か繰り返され低音も合いの手を取って、高音弦は展開、何回か主題が繰り返されたあと木管群が入りました。ここもその後も含めて、Ft.がまだ快調でない。Cl.は堅実。終了直前の Fl.はよく鳴っていました。 最後まであくまでも柔らかな調べを響かせた楽章。
第 3楽章.Menuetto e Trio
冒頭からジャンジャンジャン、ジャンジャンジャン、ジャンチャチャチャージャーンとリズム感のある旋律を、Vnを中心に繰り出し、将にモーツァルト版弦楽セレナーデの如し。何回かの繰り返しの後、木管組の合いの手が入りCl.二者はしっかりと続くと,、それに続いたFl.は、気にならない程まで、立ち直りの音を響かせていました。ムーティは少し足を開らき、ほとんどの場合体は動かさないで腕とタクトを振っていたのですが、この楽章はVn.群やVc.群の方に向きを変えてやや大きな指示を出すケースが多かった。 随分とCl.に活躍させた楽章で、モーツァルトが如何にこの楽器を好んでいたかが分ります。
第4楽章.Allegro
高音弦の速くて軽やかな旋律
が迸り出ると、全弦に広がりここでは管は動いていても頭は擡げませんが、一瞬弦が静まると木管群がテーマをカノン的に追奏し、ここではFl. は俄然力を発揮し、クリアでしっかりした音を立てていました。(前楽章でも時々そういう音は聞こえましたがたまにです)
総じて弦楽セレナーデかと思える程のVn群の奇麗なアンサンブルが主導のオケでしたが、全体として今一つ迫力を感じませんでした。ウィーンフィルのVn奏者一人一人のBowingを見ると、引きの強さにおいて皆揃って迫力がありました。そうした要素の重なりですからアンサンブルに違いが出るのは当たり前かも知れません。運弓法は基本なので、ムーティがリハーサルで指摘して直させることではないでしょうから。また特記すべきは最初から最後までペースメーカーとして安定したリズムを刻んだTimp.の地道な活躍がアンサンブルを支えていたことを記します。
<20分の休憩>
休憩中に器楽構成は、弦楽、管ともに幾つか(ニ人ずつ程か?)増強された様です。今回は未完部分は除き、シューベルトが完成した第一楽章、第二楽章のみ演奏されました。二管編成14型。
②シューベルト『交響曲 第8番 未完成》』
シューベルトはいいと思います。概して好きです。歌曲も、室内楽曲もピアノ曲も、ヴァイオリン曲も旋律が大きな顔をして鎮座している処がたまらない。でも交響曲となるといいと思って聞いていても時々冗長感が出て退屈に思ってしまう時もあります。でもこの「未完成」は未完で今日はシューベルトが丸々書いたことが明白な二楽章のみの演奏で長くないし、もともと好きな曲ですから、言うことなしです。手ぐすね引いて弾き始まるのを待っていました。
この曲は、何回も聴いています。最近だと昨年8月に出張サマーミューザ『東京交響楽団』演奏会で聴きました。かなり以前に(2020年)に聴いた時は、コロナ感染が広がり始める初期の頃で、相当強く印象に残っているので、参考までその時の記録を、文末に再掲しました。
Ⅰ. Allegro moderato
冒頭Cb.の低くて重い不気味ともいえる音が短く小さく響き、すぐに弦楽アンサンブルで、流麗な第一主題のシューベルトメロディを奏でます。冒頭Cb.の唸りとも言えるパッセージは、最後まで要所要所で出て来ました。あちこちでのチェロのソロアンサンブルが、ズッシリと全体を引き締めるいい響きを立てます。前半の低音弦の弱さは微塵も感じられず、高音弦とほど良いハーモニーを保っています。楽器増強だけでなく、演奏者も代わったのでしょうか?Fl.も最初から自然に耳に入ってきました。Cl.のソロの活躍ぶりも目立ちました。
Ⅱ.Andante con moto
メロディ作曲家シューベルトらしい流麗な調べを、ムーティ・オケは分厚いオーケストレーションで表現しています。今日は久し振りで力強く響きが良い立派な「未完成」の生演奏を聴き、オーケストラ生演奏の、又シューベルト曲の素晴らしさを満喫し満足しました。以前にも記しましたが、シューベルトの交響曲はベートーヴェンの交響曲に比べると、それらを超えたとは言えないと常々思っているのですが、この未完成を聴くと、そんなことは無いと考え直すのですが、惜しいかな完成に至っていません。もう少し天がシューベルトに命を与えて呉れていれば、きっとベートーヴェンを超える『未完成』が完成していたとまことに残念に思います。 この楽章では、ホルンとティンパニの活躍ぶりが印象的でした。
③イタリア風序曲 ハ長調 D591
シューベルトが作曲しイタリア風序曲には、ニ長調 のイタリア風序曲第1番(D 590)と、ハ長調のイタリア風序曲第2番(D 591)があります。ムーティは後者のD591を演奏しました。この曲は、1817年作曲という事ですから、随分若い時、20歳の時ですね。 器楽編成は同じ筈です。奏者の出入りがあったかも知れません、見ていなかった。
Ob.Fl.のソロがゆっくりとしたメロディで鳴らし、木管アンサンブルに繋げ、続いて軽快な調べの弦楽と続く序奏部分は、ベートーヴェンやモーツアルトまで想起させます。Cl.からOb.Fg.とつなぐ間は弦楽は一休み、Ob.の音が冴え冴えと響きました。Timp.の二振りの後しばしの休止、曲想がかなり変わって次のFl.の音と共に軽快に続くテーマは、相当イタリア風、就中ロッシーニ風です。第2主題の長いクレッシェンドで次第に盛り上がって行く部分は「ロッシーニ・クレッシェンド」を連想させるのです。再度第一主題が繰り返されFl.の音は絶えず聞こえ、大活躍です。音も透っている。演奏者は代わったのでしょうか?近くの席の若者が、❝後で演奏に出る❞とか何とか隣り同士で話しているのが聞こえました。ムーティはオケのリズムを引っ張って、かなり激しく体とタクトを動かしていました。10分もなかった位あっという間の短い序曲でした。でも力は籠った演奏でした。
今回演奏をした管弦楽団は、「東京春祭オーケストラ」というムーティの指揮を受けて演奏するために組まれた、謂わば寄せ集めの楽団です。勿論数多くある都内オーケストラの優秀な若いメンバーも多く入っているのでしょうけれど、個々の力は所属楽団の他者との共同で育まれ、生み出されたアンサンブルですから、昨年、今回と俄かに集合して、オーケストラとしての整合性、統一性を完全にすることは如何にムーティといえど、そう簡単なことではなかったと思います。皆さん集合して間もないのでしょうに、それ程練習も出来なかったのでしょうに、何回練習出来たのでしょう?リハーサルはやったそうですが。よくここまで纏まりのあるアンサンブルとして①~③を弾き切ったと思います。構成員の資質も良いのでしょうが、一回くらいのリハーサルでこれだけ纏め上げたムーティの腕は確かに凄いものがあります。
ムーティは演奏前のト-クで、❝若い人の力❞に希望を託していることも話していました。それはそうです、どんな分野でも若い人は希望の星です。日本のクラシック楽壇では若いアーティストが順調に伸びて来ていると思われますが、大災害、コロナ禍や戦乱、紛争が絶えない今日この頃です。それらを防ぐ手立て、防げないまでも被害を減殺する手立ては、我々大人に課せられた責務だと思います。ムーティのトークはウクライナ問題(というかむしろロシア問題ですね)にも触れていました。ヴェルディのオペラ『シモン・ボッカネグラ』の名を挙げていました。数多くある音楽の中でこのオペラを例に挙げたのは、ムーティが同じイタリア人だからヴェルディを贔屓にした訳ではなく、このオペラのシモン・ボッカネグラ(ジェノヴァ総督役)のアリアに、将に現在のウクライナで起きている悲劇と同じことを止めようとして歌う箇所があるからです。オペラに詳しいムーティならではの例えです。以下に参考までその一節を引用(抜粋)しました。ここで総督とは、シモン・ボッカネグラのことです。
《オペラ、シモン・ボッカネグラ第一幕より》
第10場
(総督の宮殿の議会場の中 総督は総督席に座っている 片側には12人の貴族出身の議員 もう片側には12人の平民出身の議員 別のところに座っているのは4人の海運執政官と軍司令官 パオロとピエトロは平民側の席の一番後ろに座っている)
【総督】
代議員諸君 ダッタンの王が君たちに申し入れてきた
和平条約と豊かな贈り物を
その上で言っている 黒海を
われらリグリアの船に開放すると
同意するか?
【全員】
しよう
【総督】
もうひとつ決議がある
一層の寛大さを私は望むぞ
【幾人か】
お話しください
【総督】
かのリエンツィの上にとどろいたのと同じ声が
栄光とその後の死の予言を
今ジェノヴァにとどろかせている - ここにメッセージがある
(文書を示して)
ソルガの隠者からの ヴェネツィアとの
和平の求めなのだが...
【パオロ】
(さえぎって)
奴の詩に乗せられないようにしましょう
アヴィニョンのブロンドの娘のことばかり歌ってる奴の
【全員】
(怒り狂って)
ヴェネツィアと戦争だ!
【総督】
そのような凶悪な叫びが
イタリアの二つの海岸の間で振り上げることになる カインの
血まみれの棍棒を!- アドリア海とリグニア海は
共通の祖国を持っているのではないか
【全員】
われらの祖国はジェノヴァだ
(遠くで騒動)
【ピエトロ】
何の叫びだ!
【幾人か】
どこから聞こえてくる叫びなのか?
【パオロ】
(ジャンプしてバルコニーに駆けつけた後)
フィエスキ広場からだ
【全員】
(立ち上がって)
暴動だ!
【パオロ】
(ずっと窓際に立って、彼にピエトロが近づく)
群衆が逃げ惑っているぞ
【総督】
聞け
(騒音が大きくなる)
【パオロ】
何を言ってるのか聴き取れない ...
【声】
(舞台裏から)
死を!
【パオロ】
(ピエトロに)
あの男か?
【総督】
(それを聞いてバルコニーに近づき)
誰なのだ?
【ピエトロ】
ご覧ください
【総督】
(見ながら)
何と!ガブリエーレ・アドルノではないか
民衆に襲われているのは...彼の隣で
グェルフィの者が戦っておるな 我が許に伝令を寄こせ
【ピエトロ】
(そっと)
パオロよ 逃げないと捕まるぞ
【総督】
(パオロが逃げようとするのを見て)
海運執政官たちよ
扉を守っってくれ!逃げようとする者は
裏切り者だ
(パオロは戸惑って立ち止まる)
【声】
(広場で)
貴族どもに死を!
【貴族の議員たち】
(自らの剣を抜いて)
武器を!
【声】
(広場で)
平民万歳!
【平民の議員たち】
(自らの剣を抜いて)
万歳!
【総督】
何?諸君らもか?
諸君らもここで!混乱を引き起こすか?
【声】
(広場で)
総督に死を
【総督】
(誇らしげに力強く立ち上がる そこに伝令がやってくる)
総督に死だと?いいだろう -
伝令よ 開くのだ
この宮殿の扉を そして群衆に告げるがいい
貴族にも平民にも 私は恐れてはいないと
脅しを聞いてやろう ここで待っておるぞ...
剣をしまえ
(議員たちは従う)
【声】
(広場で)
武器だ!破壊だ!
家に火をつけろ!
投石器だ!
処刑台だ!
(遠くでトランペットの音 誰もが注意深く聴く 沈黙)
【総督】
伝令のトランペットだ...
語りかけているな...
皆 静まったぞ....
【声】
万歳!
総督万歳!
【総督】
群衆が来たな!
第11場
(なだれ込んでくる平民の集団 議員など たくさんの女たちや子供たち 総督 パオロ ピエトロ ずっと貴族側と平民側に別れている議員たち ガブリエーレ・アドルノとフィエスコが平民たちに捕まって連れて来られる)
【民衆】
復讐だ!復讐だ!
凶悪な殺人者の血を撒き散らせ!
【総督】
(皮肉に)
これが民衆の声なのか?
遠くでは嵐の雷鳴のようであったが 近くでは
女と子供の叫びではないか アドルノよ
なぜ剣を振るう?
<中略>
【アメーリア】
心地よく幸せな夕暮れ時に
私はひとりで海岸を歩いておりますと
三人の誘拐犯が私を取り囲み
私を船に連れ込んだのです
【民衆】
恐ろしい!
【アメーリア】
抑えつけられた悲鳴も役には立たず...
私は気絶して 再び目を開けたときには
ロレンツォの部屋の中にいる自分を見たのです....
【全員】
ロレンツォだと!
【アメーリア】
私はその悪人に囚われてしまったことを知りました!
でも彼は臆病者だということを知っておりましたので
総督は 私は言いました この陰謀を知ることになるでしょうと
もし私をすぐに自由にしなければ
恐怖に動転して 彼は私に扉を開けてくれました...
大胆なこの脅迫が自分を救ったのです...
【全員】
当然だ 悪漢が死んだのは
【アメーリア】
ですがここに一番の悪人がそしらぬ顔をしているのです
【全員】
いったい誰だ?
【アメーリア】
(人々の一団の後ろにいるパオロを見つめて)
私の言葉を聞いて...青ざめるのが見えました
その男の唇が
【総督とガブリエーレ】
それは誰なのだ?
【平民たち】
貴族だ
【貴族たち】
平民だ
【平民たち】
剣を下せ!
【アメーリア】
恐ろしい叫び声!
【貴族たち】
斧を下せ!
【アメーリア】
お慈悲を!
【総督】
(力強く)
兄弟殺しよ!
平民たちよ!貴族たちよ!引き継ぐ者たちよ
恐ろしい歴史を!
憎しみの相続者よ
スピノーラとドーリアの
幸せに諸君を招いているというのに
この広い海の王国が
諸君はこの兄弟の地で
互いの心を引き裂き合っているのだ
諸君のために私は泣こう 穏やかな
諸君の丘の上の光のもとで
そこでは空しく芽吹いているのだ
オリーブの枝が
私は泣こう 偽りの
諸君の花の祭のために
そして私は叫ぼう 平和を!と
そして叫ぼう 愛を!と
即ち下線部 「共通の祖先をもつ」「兄弟の地」とはジェノヴァとヴェネチアを指し、現在ウクライナと戦争しているロシアとを対比させたものです。ウクライナとロシアは歴史的に見て、もともとは兄弟の様な関係だったというではないですか。戦争をして兄弟が血を流すことはないとムーティは言いたかったのでしょう。
********(再掲)**************************
『巨人』との闘い
古来人間は、外敵から身を守り或いは戦い、地上での覇権を握りました。2億年も前の恐竜全盛時代には、人類の祖先は猿にも進化しておらず一種のネズミの様なものだったそうではないですか。きっとゴジラの如き怪物に食べられまいとして、コソコソと逃げ回って生き延びて来たに違い有りません。マンモス時代には、逃げるだけでなく、知恵を絞って戦い、倒し、逆にマンモスを食らうこともあったでしょう。こうした巨大生物から受けた恐怖感は、人間の遺伝子に深く記憶されているに違いない。時代がズーと下がり中世になっても西欧では巨人伝説が残されています。澁澤龍彦は次のように述べています。“ヨーロッパの中世にも、悪魔や魔女や巨人の出て来る妖精物語や奇跡譚や伝説集があったのである。”(澁沢龍彦『西欧文藝批評集成…幻想文学について』)と。
スペインの画家ゴヤの大作「巨人」を観れば、如何に恐怖心が大きかったか分かります。
近代合理主義と科学技術の発展は、そうした恐怖を取り除き、人類が地球上の覇権を握ることを可能としました。しかし、覇権を握ってからも安心では無かったのです。病原菌という強敵が、次から次へと襲ってきたからです。菌が人間を死に至らす事もあれば人間が菌を死滅させることもありました。仁義なき戦い!でもやっかいなことに、菌は次から次へと姿を変えて攻撃するようになったのです。科学技術による武器の一つは「抗生物質」でした。ところがこの武器が当初の効果を発揮出来ない事態が生じました。敵もさるもの、この武器をすり抜ける手段を得たのです。そう耐性菌の出現です。「進化」という手段は、ネズミをホモサピエンスに変えただけでなく、平等に菌も進化させたのでした。はるかに速いスピードで。小さな巨人との仁義なき戦いが続くのです。
何かこうした現実を考えると、「共存共栄」という言葉は、空虚に聞こえますね、残念ながら。こういう時期には外出しないで、家にこもっていればいいのかも知れませんが、昨日土曜日は大学オーケストラ演奏を聴く予定にしていたので、みなとみらいホールに行ってきました(2020.2.1.13:00~)。演奏は、東京大学音楽部管弦楽団(指揮:三石精一)、曲目は、①ワーグナー作曲『さまよえるオランダ人』序曲 ②シューベルト作曲『交響曲第7番未完成』 ③マーラー作曲『交響曲第1番巨人』
演奏の模様を記す前に先ず配布された「プログラム」の充実振りを特記しなければなりません。オケの構成員全員の担当楽器パート毎の名簿、曲毎、パート毎の管・打構成表、曲毎の配置図など仔細に渡って記載されており、これらを参考にしながら演奏を聴いたので非常に役立ちました。中でもプログラムノートは曲と作曲家の関係など、楽譜も引用しながら記述されており、ちょっとした解説書より良く出来ていた。
さて、三つの曲の演奏とも、ヴィオラとチェロの配置が入れ替わっていました。即ちチェロ群がステージの右手前面に配置、第一ヴァイオリンと対面する形です。
一番気に入った演奏は、シューベルトの②の曲「未未完成」でした。この時の楽器編成は①の時より若干の楽器の減があり、二管編成 弦楽5部は12型の変形か?
第1楽章の弦のアンサンブルも良かったし(特に第1ヴァイオリンは他の曲も含めて一番良く合っていて綺麗なアンサンブル、中でも弱音でのアンサンブルが非常に澄んだ音でした。)、フルートもオーボエもクラリネットも独奏部、弦との掛け合い共良く出来ていたと思います。第2楽章も前半の弦の調べ、管の響き共穏やかな流れの中にも力強さが感じられ、クラリネット、オーボエ、ホルンの独奏部も心地良く聞こえました。やはりシューベルトの曲の多くは、基本的にメロディの大きな流れがあってその変奏も流れに抗うことなく、流れに乗った状態で繰り出されるのですが、この曲もそんな感じで、とても気持ち良いですね。心が安らぎました。
③の演奏は、楽器群が増加され総勢110人態勢。マーラーの曲は、何回も聞くうちに、聴くだけでなく「観る管弦楽」だと最近思っています。兎に角見ていて非常に面白い。マーラ-はご存知の様に、管や打楽器に大変活躍の場を広げました。女性テンパニー奏者の思い切りの良い打奏、しかも二名で打ち鳴らす箇所の小気味よさ。第2楽章でオーボエ奏者、フルート奏者などが楽器を上に立てて、高らかに演奏する箇所(楽譜でマーラーがこまごまと指示しているそうですね?)、弦楽5部も4楽章等の大音量の管・打に負けずと、力一杯体を大きく揺すって弦を行き来させる姿など、そうそうバンダの動きもありました。(オペラを除いて)これ以上見ごたえのある演奏は他に有りません(ピアノ演奏の鍵盤上の動きも面白いですが、それ以上です。)混沌から抜け出した時の静かなアンサンブルのこれまでとの落差の大きい対比、長い演奏時間の割に小気味よく簡潔に演奏を終結させる。マーラーはやはり尋常でない天才ですね。この曲の演奏を聴いて非常に楽しくなりました。
尚①について は立ち上がりのせいなのか、ワーグナーの楽譜の音構成のせいなのか分かりませんが、聴いていて余り感動しませんでした。やはり個々の演奏力が全体の響きに少なからず影響するのかも知れません。
「プログラムノート」のマーラーの曲目解説に “この曲紹介は、マーラーという「ゴリアテ」に筆者が対峙しようとする格闘記である”との記載がありますが、オーケストラの皆さんは『巨人』との闘いに挑み見事勝利したと言えるでしょう。コロナウイルスという巨人との闘いにも人類が大勝することを祈ります。