今日は『大寒』の日、寒かったですね。ここ数日天気がいいのですが、寒気の影響で気温はかなり低いようです。雪景色の富士山が綺麗に見えました。
「大寒」は24節季の一つです。「24節季」とは簡単に言いますと、1年を24等分して特徴ある季節の名称を付けたもの。
WEBの詳しい記載を引用すると次のようなものです。
【二十四節気】
中国の戦国時代の頃、太陰暦の季節からのずれとは無関係に、季節を春夏秋冬の4等区分する暦のようなものとして考案された区分手法のひとつで、一年を12の「節気」(正節とも)と12の「中気」に分類し、それらに季節を表す名前がつけられている。
重要な中気である夏至・冬至の二至、春分・秋分の二分は併せて二至二分(にしにぶん)と言い、重要な節気である立春・立夏・立秋・立冬を四立(しりゅう)、二至二分と四立を併せて八節(はっせつ)という。太陰太陽暦では、暦と季節のずれを正すために用いられる。
本来の二十四節気は中国の中原を中心とした地域の気候をもとに名付けられており、日本で体感する気候とは季節感が合わない名称や時期がある。違いを大きくするものとして、日本では梅雨や台風がある。例えば夏至はまだ梅雨の真っ只中にあり、蝉はまだ鳴き始めていない。小暑では蒸し暑さは増すものの七夕を眺めるような晴れの空は期待できず、暑中ではあるのに地域によって梅雨寒となることもある。大暑は「最も暑い時候」と説明されるが、盛夏のピークは立秋の前後となる。
日本ではこのような事情を補足するため、二十四節気のほかに、土用、八十八夜、入梅、半夏生、二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取り入れた。なお、二十四節気や雑節は、旧暦に追記されて発行されていた。
旧暦の日付は、年ごとに月がおよそ1朔日間(およそ29.5日)の範囲で誤差が生じるため、二十四節気の日付は毎年異なる。それでも四立や八節に加えて一年の中の季節を分ける目安としては十分であった。
弱冠の補足をしますと、「戦国時代」とは日本の戦国時代の事でなくて、紀元前5世紀から秦の始皇帝が全国統一するまでの約200年間を指し、「戦国の七雄(秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓、)」が戦さを繰返した戦乱の時代を指します。
「中原」は中国の華北平原一帯を指し、この地は古くから文明が発達し、文化・経済の中心地域であったので、戦国の各国は中原を如何に手に入れるかに腐心しました。
「日付は毎年異なる」と言っても1日位の違いで、大寒を例にとれば、新暦でこの50年間に1月20日が35回、1月21日が15回です。1月19日になるのは31年後の2053年です。
24節季は立春から始まり、大寒は一年の最後の節季です。これは今日から数えて13日後の2月1日(火)が旧暦の元旦になるからです。旧暦の最初の24節季が旧暦1月4日(我々の新暦2月4日)の立春なのです。そう言えば寒い空気の中にも何か寒さが春に向かっているわずかな気配を感じるのは私だけでしょうか?
旧い中国の詩にも、『山中無暦日 寒尽不史知年(山中れきじつ無し、寒尽きれども年を知らず)』街から離れた山の中に暮らしている生活には暦は無い。寒が終わって年が改まるのも知りません。とあります。これは何も山中暮らしでなくとも、東京砂漠に住んでいても同じことがあるかも知れません。
また孟子の言葉として“寒”の代わりに“旱”を使った『大旱の雲霓(うんげい)を望むがごとし』がありますが、これは “非常な干ばつの時でも雲が湧き干天の慈雨が振って、空には輝かしい虹が出て来ることを待ち望んでいます。” といった意味です。現在のコロナ感染の惨憺たる状況下では、『大寒の雲霓(うんげい)を望むがごとし』即ち “非常な寒さの時でも暖かい春雨が間もなく降り、雪は解け輝かしい虹が大空にかかる日が来ることを待ち望んでいる” と書き換えることも可能なのではないでしょうか。
一日でも早くコロナ禍が終息することを心から願っています。