HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

ワーグナー『楽劇・ニュルンベルクのマイスタージンガー』第4日目再鑑賞

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 表記のオペラは既に初日(11/18)を観賞し、上演の様子は即日このブログに記しました。

 しかし初日を見た後、幾つかの疑問が残り、また次は、何年先に見られるか分からないので、再度見に行き心に焼き付けることにしました。

①新国劇H.P.の写真の場面の中で、どこだったか覚えていないもの及びうろ覚えのものがあり、見落とした可能性有り。

 次の写真の靴職人は若き見えるし、ザックスではないので徒弟かな?何か違う人に見えます。?リュートを弾くのは誰だったか?この人達見たことない。

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以下は多分エーファーの父親が歌合戦の勝者に娘を嫁がせ、自分の財産も受け渡すと歌った場面だと思いますが、不明瞭な記憶。

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マイスターは最初左右の席6名づつ計12名だと思って見ていたら、左右のどちらかが1名数が違う場面があった様な気がして、あれは勘違えだったのか?

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などなど、それから

②ドイツ人歌手の歌い振りが初日と同じなのか変わったのかどうか。これは又日本人歌手に関しても同様に知りたいところです。同時に前奏曲の演奏は今度はどうか? 初日から10日間も経った今となっては、いろんな意味で演奏者は随分慣れたと思うのですが。

③マイスターたちの肖像画をバリバリ破る場面が途中何回かあったと記憶します。誰の顔の肖像画だったか?これは最後のエーファが破る場面の伏線だったと思うので。

その他細部で見落としていたところがあると思いますので、新たな発見があるかも知れない。

 まー以上の点はさて置いて、歌と物語を初日の緊張の中で見聞きしたのとは違ったリラックスした気持ちで楽しもうとも思うのです。

といった観点から二回目を観たのですが、前奏曲に関しては今回は、非の打ち所無し。弦楽アンサンブルは勿論、管・打(殊にTimp→Hrn)の息も合っていて響きが良いし、弦と管のバランスも安定していて、これぞ「マイスタージンガー」というこれまで聴いてきた音楽の響きと同じ満足のいく演奏でした。これは幸先良いわいと思った通り、歌との協奏も共奏も競奏も、大野都響は、見事なアウンの一致にオケを誘導していました。 

 H.P.の写真に関しては、今回の上演のものばかりでなく、他のものも混在しているのですね。最初の写真はザルツブルク音楽祭、ベッグメッサーとザックスはもう少し年をとっています。西洋ニワトコのある写真は、今日の舞台ではカンバスに描いた絵を使っていたなどなど。

 (追記)

さて歌の方ですが、先ず主役と言って良いザックスです。マイヤーの調子は初日よりは良かったのではないでしょうか。

第二幕の工房で、弟子のダーヴィトに対する歌やベックメーサーに対する歌は、迫力があり力強く、初日と同じく「ザックス親方はやはり靴皮を叩く時が一番似つかわしく力を発揮する」と思いました。また第三幕最後のモノローグ、演説の歌は、切々たるものがある感動的なものには、変わりが有りませんでした。快調な歌だったとは言え、この歌手の限界も感じさせられるものかもしれません。

 一方ヴァルター役のフィンケは聴かせ処のアリアになると安定した歌唱で、音しつに更に潤いと伸びが出ていました。第一幕の『冬の日の大炉端にて』で、最初から素晴らしい響きをホール一杯に響かせていました。

 ベックメッサー役のエレートは益々快調、歌で演技で大張り切りでした。特に第三幕の歌合戦では、前日の騒動で怪我した足を引き摺りながら舞台に上がり、ザックスから貰った歌詞を初日だと、かなり喜劇的にずっこけた調子で歌ったのですが、今回は、観衆たちの嘲笑にも動ぜず、かなり全うな歌い振りで、実力を誇示していたのが印象的でした。益々評価が上がるでしょう。

 それにしてもエーファの父親ポーグナー役のイェンティンスは、硬質な声質ながら全然力まなくとも伸びる安定したバスを響かせていました。出番が少ないポーグナー役では物足りなかったでしょう。

 これらドイツ軍勢(白)の歌に対する日本人歌手軍勢(赤)の歌いぶりは、総じて初日以上の活躍だと感じました。林エーファも山下レーネも、伊藤ダーヴィト、青山コートナー、長谷川シュヴァルツ、妻屋フォルツも、舞台露出度が高い人は、全力で力(声)を出し切っていたし、低い人は短い歌唱をキラリと光らせていました。この両軍の歌合戦は、初日より得点を随分稼いだ白組の僅差逆転勝ちと見ました。(追記了)

 

 今回の様に同じ演目を二回観ることは、ウィーンフィルの場合を除いて滅多にしないのですが、今回は余りに長大なオペラだったし、またコロナで長期間待たされたことも有りまた行きたくなったのでした。

 二回目を見た後も、矢張り今回のオペラのクライマックスは、マイスターの称号を授けようとするザックスの切々たる説得の歌唱にもかかわらず、それを最後まで拒否して終わったこのオペラの本来の筋書きとは異なった演出の場面だと思いました。このことは、原作の台本に真っ向うから逆らい、この「マイスタ-ジンガー」のオペラ自体の存在を否定することになります。即ちワーグナーの否定につながってしまう。演出者は単に奇を衒ったのではなくて、本気で否定したのだと思いたい。奇をてらっただけ或いは流行に流されているだけなのであれば、単なる射幸心に駆られたくだらない企みに堕してしまいます。ワーグナーの創作努力への冒涜です。細部の演出ならまだしも、そのオペラ生命の根幹に関わる演出です。若し本気に否定したのであれば、その考えの背景にはしっかりした考えがあってのことだと思いたい。古今東西、ワーグナーの作品に対しては賛否両論、かんかんがくがと議論されてきたのですから。例えば、ここに一冊の本があります。著者は音楽界で知らない人はいないと思われる、フルトベングラー。『ワーグナーの場合』という1941年の論文です。フルトベングラーは、その中で、かの有名なニーチェとワーグナーとの関係を論じています。この年は、ドイツがソ連と戦争を開始し盛んにソ連を追い詰めていった年でした(すぐに反攻を受けますが)。ニーチェ(1844~1900)はドイツの哲学者、ワーグナー(1813~1883)より30歳も年下でした。フルトベングラーはこの論文の中で、次の様に述べています。❝当初からニーチェはワーグナーに一辺倒に惚れ込んでいました。❞ ❝ワーグナーの方はニーチェの天才性をすぐにつかみ理解しました。❞   要するにニーチェは若い時、熱烈なワグネリアンだったのです。しかしワーグナーの方は、❝若いニーチェがワーグナーに捧げた立派な友情に対し、ろくろく返報することも知らなければ、その友情の真の価値を尊敬する事すらわきまえない男でした。❞ といった風で、ニーチェが次第に名を上げて行くにつれて二人の関係は疎遠というよりこじれた関係になって行くのです。1888年にニーチェは『ワーグナーの場合』を書き、ワーグナーの民族至上主義と反ユダヤ主義を批判し、反ワーグナーの側に立ったのでした。ニーチェはさらに次の様に言います。❝ワーグナーの芸術は病的だ。彼が捉えて舞台に載せる問題は、どれもこれもヒステリーにかかった人間の問題ばかり。登場させる主人公も女主人公も生理学的類型として見る時、まるで疾病者の陳列の観を呈する❞と。しかしフルトベングラーはこの考えに賛同できず、次の様に書いています。❝ここでニーチェは、ワーグナーは作家でもあり、今目の前にある、あるがままの人生の全部を掴んでいること、その人物らは現実のさまざまな様相を反映していることを完全に忘れている。むしろワーグナーの描く人物の多くはこの種の健康さを、かえって最高度に備えていると言ってよろしい。私は、ここではただニーチェ自身、ワーグナーの作品の中での例外だと言っている『ジークリフト』の形姿、或いは『マイスタージンガー』の中の人物らを思い出してみるだけで充分だと思います❞ 

 かくの如く、ワーグナー及びその作品に対しては賛否両論が、同じ人物からでさえも発生している現実は直視しなければならないと思います。

 これも広く知られていることですが、フルトベングラーは、ドイツが連合国に降伏した1945年5月の直前の2月、ウィーンフィルの定期演奏会後にスイスに亡命しました。彼を嫌っていたナチスのムヒラーが逮捕命令を出したからです。逮捕されていたら、処刑されていたでしょう。亡命を助けた人びとがいたのです。亡命して2~3か月後にヒットラーは自殺しドイツは降伏したのでした。降伏後すぐにフルトベングラーは、連合国に戦争中、ナチ協力の疑いで、演奏禁止処分を受け、裁判にかけられました。しかし、彼は、戦時中国内のユダヤ人音楽家を庇護したことが分かり、ナチ協力の嫌疑は晴れ、1947年には「非ナチ化裁判所」はフルトベングラーに無罪を言い渡しました。そうして彼は演奏活動に復帰しベルリン・フィルの終身指揮者に就任したのです。近代法の精神は「疑わしきは罰せず」です。厳然たる証拠が無ければ、状況証拠だけでは無罪です。無罪を勝ち取れば、真白い綺麗な人間と見なされるのです。この嫌疑をかけられたことを持って、口さがない人達は彼をヒットラー協力者だ等と正しくないことを言いふらすのです。これはその後彼の7年程の少ない残りの人生の間、フルトベングラーを悩ませ苦しめました。

 今回の演出の結末に戻りますと、気持ち的には人種差別的考えには勿論反対ですが、ザックスの最後の説得の歌にもある様に、ワーグナーがこのオペラを作った1840年代の欧州各国の政情はかなり不安定な状況を呈しており、『神聖ローマ帝国が滅びようと・・・』といった表現は、1800年初頭にナポレオン1世(ボナパルト)の侵略を受けドイツ、オーストリアは敗退して神聖ローマ帝国は1806年に消滅してしまった、そうした外国勢力の脅威に晒される恐れが背景にあったことを忘れてはいけません。これはワーグナーの生まれる数年前の事で、例えば日本の敗戦後、戦後生まれの子供たちが成人になるまでの教育(学校&家庭&社会)を思い出せば、分かると思うのですが、外国との戦争によりがらりと生活や社会が変わってしまうという教訓を、ワーグナーの育つ時代にもいろいろ同様な教訓が人々の間で囁かれていたのに違いありません。だって当時は1848年2月にミュンヘン暴動、3月にはウィーン三月革命(メッテルニッヒ失脚)、ベルリン三月革命が起きるなど、激動の時代でした。挙句に再びフランスの脅威、圧力も感じていたことでしょう。実際フランスではナポレオン三世が皇帝となりプロイセンと晋仏戦争を戦ったのは20数年後の事でしたから。こうした政治情勢を抜きにザックスの最終演説の歌の内容を理解することは出来ません。どうしてもナショナリズムの色彩を帯びざるを得ないのもムベなるかな、です。

 

 

 

 

 

 

17歳の時、育て親がコージマからバイロイト音楽祭のゲネプロに招待される。高齢のため一人でベルリンからバイロイトまでの長旅は心細いので、世話人として共に行くことが許可されウィニフレッドもバイロイト音楽祭を初めて経験。(30ページにその時の写真あり)その年のバイロイト音楽祭開催中に、第1次世界大戦が始まり(1914年)音楽祭は途中で中止。ワーグナー家には膨大な借金が残る。
1915年、18歳でジークフリート・ワーグナーと結婚。ヴィニフレート・ワーグナーと名