HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

七夕の日

今日は7月7日七夕の日、と言っても新暦ですから丁度梅雨の真っ盛りの中です。

今年の関東地方の梅雨入り宣言は、気象庁が仲々発表しなくて、それまでにかなり雨の日も多く、晴れて気温が結構高かった日もあり、下手すると梅雨入り宣言のタイミングが無い年になるのか、と若干危惧していましたが、6月14日に宣言が為され、それ以降結構雨の日が多くなって、最近では物凄い豪雨が全国(北海道は)的に襲ってくる日が続きました。従って浸水、がけ崩れなどの被害は後を絶たず、特に熱海温泉の土石流の被害は、目を覆う程の大災害となってしまいました。亡くなられた人々、影響、被害を受けられたすべての人々には、お見舞いの言葉をどうかけたらいいのか分からない程です。私の住む横浜市も起伏の多い地でして、崖、低地、河川沿線の住宅街が多くあり、こうした災害は他人ごとではないと警戒している処です。早く雨が止んで梅雨が明けるのが待ち遠しい今日この頃です。

 ところでこの月日がゾロ目となる節句は 1/1 から始まって3/3  5/5  7/7  9/9 は古代中国の時代からのもので、(暦法上、占星術的に)特別な意味合いの日とされた様です。でも時代とそれを受け継いだ国によって、意味合いはかなり異なって解釈されている様です。五月五日を例にとりますと。今日の日本では『こどもの日』として、菖蒲を飾ったり菖蒲湯に入って、子供の健康を祈念し、柏餅などを食す習慣となっていますが、中国の古代、即ち春秋戦国時代(紀元前403年以前の東周と前403年以降の東周の時代)の後半の戦国時代では、全く別の意味合いを持った日らしかった。

 当時の有力国に斉の国が有りました。そこの宰相、田嬰には側室の子を含めると多くの子供が生まれましたが、その中に5月5日に生まれた田文という子がいました。当時は5月5日に生まれた男子は大きく成長すると、親を殺すという忌み嫌う言い伝えが信じられていたのです。田嬰は田文を赤子のうちに川に流すか山に置き去りにするか何れにせよ始末する様に生みの親に命じます。母親は殺すに忍びず、こっそり育て、少年になった田文は才能を発揮し父の田嬰の認めるところとなって、家督を継ぎ斉の宰相にまで登ることになったのです。これが、有名な孟嘗君です。孟嘗君には多くの優れた評伝が伝えられています。『鶏鳴狗盗』などの諺、物語は孟嘗君が暫く務めた隣国、秦から命からがら逃げだし母国に戻る時の物語です。秦と言えば、つい最近まで日曜日の夜NHKBSで始皇帝の母親に関する「コウラン伝」が放送されていましたが、『鶏鳴狗盗』の話しは始皇帝のひいおじいちゃんである、昭襄王の時代の事でした。話が益々逸れますが、始皇帝が天下を統一できた下地は、昭襄王から遡ること3代、考公に仕えた商鞅が『商鞅の変法』即ちそう呼ばれた厳しい法律を国内に徹底させ、法治国家を目指したことが大きく貢献していると思います。

 大分脱線しましたが、言いたいことは、❝七夕と言っても新暦では彦星も織姫も空に見えないことの多い梅雨の習わしが、日本人に今後どれだけの時代その風習が引き継いでいかれるのか心もとない❞ ということでした。