HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

『KING &QUEEN展(from National Portrait Gallery of London)』鑑賞詳報Ⅳ-4

《ヴィクトリア朝④》

 ヴィクトリア女王が君臨した1837年から1901年は、概ねイギリスがあらゆる面で発展し、世界のリーダーたる地位を築きました。その礎えとなったのが、それに先立つ選挙法の改正です。1830年の総選挙では、トーリー党が破れ、その長期政権が崩れてウィッグ党が政権を握ったことは前々回述べました。ウィッグ党は労働階級と新興市民階級の支持を受けて、翌1831年には選挙法改正法案を上程、さらに翌年には議会を通過させました。その結果、より多くの人々が新規に選挙権を獲得し、このことは、従来の支配階級に中産階級及び労働者階級の一部が加わったことを意味します。新興ブルジョアジーの台頭です。さらに1867年の選挙法改正により、選挙権資格は引き下げられ、借地人の一部他にも選挙権が与えられました。これにより都市では新しく100万人もの有権者が増えたといいます。

 この選挙法改正と相まって、1842年の穀物法の改正、1833年の奴隷制の撤廃も、ヴィクトリア王朝期の発展を支えたと考えられます。

 またヴィクトリアが即位した30年代頃からは、海外への移民が急激に増え、イギリス史上最大の移民ブームが生まれました。これは産業革命がどんどん進行し貨幣経済(資本主義)が発展したため、農民層で土地を失う者が続出、また多くの都市小市民も没落したためでした。海外移住を後押ししたのが、圧倒的な強さを誇る海軍力等の軍事力でした。イギリスの海外領土はこうして大きく拡大されたのです。こうした中には独立を認めた米国は別として、インド、セイロン島、ビルマ、香港島、九龍、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ他があり、汎世界的な規模での植民地が形成されました。しかしこうした膨張した世界帝国も1870年代から徐々に衰えを見せる様になり、米国、ドイツには追いつかれ、その後追い抜かれることとなります。1877年にヴィクトリア女王が正式にインド帝国の女王を兼ねた時から、インドは「インド帝国」と呼ばれる様になりました。が、この頃には君主は「君臨すれども統治せず」の原則が既にはたらいており、事実上政府と議会が英国の施策を遂行していたのです。第一次世界大戦前に、南アフリカでのイギリスの支配に対して非暴力運動で民族運動を展開していたガンジーが将来インドの命運を左右することにもなるのです。

 こうした英国の衰退の目が、綻びが出始まる20世紀初頭の1901年にヴィクトリア女王は、遂に62年の即位最長不倒記録を達成して亡くなったのでした。享年82歳、これはそれまでの最高齢の英国君主の死でした。(現エリザベスⅡ世は既にその記録を抜いていますけれど。)

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死の1年前の肖像画

 ヴィクトリア女王の死と同時にその長男エドワード皇太子が、エドワード7世として即位しました。

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エドワード7世とアレクサンドラ王妃(1901年頃撮影)

 1863年にアレクサンドラ皇太子妃と結婚してから、40年近く過ぎていたエドワード7世は年老い、還暦に到達していました。在位はその後10年程でした。こうしたことは以前書いたジョージ3世とジョージ4世との関係に似ていますね。長期政権の後は短期ということでしょうか。現英国王室でも同様な現象が、近い将来起きるかも知れない。日本でも将来起きる可能性はあります。