《ヴィクトリア朝②》
前回エンゲルマンにより、三原色のクロモリトグラフィーという手法が発明され、これによりロイヤルファミリーを描き撮って、日常生活を一般大衆にも公開したことなどを書きました。これとは別に19世紀に入ってから写真技術が発展し始め、その発展は目覚ましくその辺りをWeb記事から引用すると、次の様です。
最初の写真は、1827年にフランス人発明家ジョセフ・ニセフォール・ニエプス(Joseph Nicéphore Niépce) によって撮られました。石油の派生物であるユデアのアスファルト(瀝青)を塗布した磨いたシロメ(白鑞)の板に作成された画像です。彼はもともと石版画制作に興味を持っており、やがて手で彫るのではなく光で自動的に版を作る方法を模索しました。瀝青は光に当てると硬くなって水に溶けなくなるため、これを使って印刷用の原版を作ろうとしたのです。彼はこれをカメラ・オブスクラに装填して自然の映像を定着させることを思いつき、試行錯誤の結果1827年、自宅からの眺めを写した最初の写真を撮影しました
1851年フレデリック・スコット・アーチャー(仏)がコロジオン法(湿式コロジオン法)を発明し、金属板に代わりガラス板を使ったネガ版を作る写真技術を導入した。これに先立ち、スロベン・ジャネス・プハールは1841年にガラス面へ写真を撮る技術を発明し、1852年7月17日、パリの国立農工商大学で認知されている.
ヴィクトリアは写真というメディアによって、人々が王室への関心を高めるようになることを明確に把握していました。自身とアルバートが写っている写真を、擦り増しして販売することを許可し、こうしたものは何十万枚も、名刺写真として販売されたと謂われます。
丁度この頃(1861年2月)に取られた写真が、ヴィクトリア女王とアルバート公のツーショットなのです。
まなざし厳しく何かを見つめるアルバート公、つつましくその前に佇む女王、女王はアルバートの愛と庇護にすっぽり包まれている様子そのものです。こうして写真肖像は次第に絵画肖像に置き換わるものとして普及し始めるのです。
しかしこの写真を撮った10か月後、不幸にもアルバート公は腸チフスで突然亡くなってしまいました。享年42歳、ヴィクトリア女王も同い年でした。それ以降悲しみにあけくれた女王は何年にも渡って喪に臥し、十年近くも公の場には姿を見せなくなったそうです。現代の日本などでは四十九日が過ぎれば、忌中開けとして慶事もやって良いとも言いますし、一応喪中は一年間とすることもあります。古代中国でさえ長くても三年です。三年喪に服したという例は、春秋戦国時代の斉の宰相であった管仲(❝管鮑の交わり❞で有名)の場合です。親が亡くなって、一種断食に近い様な「三年喪」に服したことで、親孝行これに極まりと讃えられました。
しかし十年も嘆き悲しみ、鬱々と晴れない日々を暮らしたヴィクトリアの場合は、それだけ愛が深かったからと言えるでしょう。
夫が亡くなってから二年後に撮られた写真がありますが、女王は黒い喪服に身を包み、アルバート公の胸像をじっと見入っている様子が窺えます。
これは女王の両脇に立つ息子の皇太子と皇太子妃の結婚式から間もない時の写真です。結婚式の日にでさえ、女王は黒い喪服で式から離れた場所で参加し、晩餐会も欠席したそうですから、相当の悲しみですね。出来れば後を追いたいくらいの思いだったのかも知れません(立場上それは絶対出来ないことでしょうけれど)