HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

『KING&QUEEN展(from National Portrait Gallery of London)』鑑賞詳報Ⅲ-5

《Ⅲハノーヴァー朝⑤》

 ジョージ4世は、皇太子時代から暴飲暴食で有名で、「クジラ王子」と揶揄される程太っていました。賭博や色を好むことでも知られていました。次の肖像画は、ジョージ4世を風刺した版画です。

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『消化におびえる酒色にふけた人、ジョージ4世』

前回掲載した、摂政時代の彼の肖像画(1814年頃)とは大違いですね。その肖像画を描いた画家、トーマス・ローレンスは、“この肖像画はまさに本人そっくりだ’と弁明せざるを得なかったと謂われています。KINGの肖像画としては画家は粉飾せざるを得なかったのでしょう。                   

    またジョージ4世との浮名を流した女性は多いのですが、中でも、フィッツハーバート夫人、マリア・アンヌはその代表格でしょう。

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マリア・アンヌ・フィッツハーバート

 未亡人であった彼女は当時美人で有名であり、ジョージ皇太子から秘密裏に結婚を迫られました。彼女はカトリック信者であり、ジョージが王位継承権を捨てなければ正式な結婚は出来ないので秘密裏に式を挙げました。しかし国王(ジョージ3世)の了解は得られず、彼女は皇太子の「愛人」として、皇太子が正式結婚した後も日陰の生活を余儀なくされました。

 ジョージ4世在位の時代(1820~1830)は、イギリスにとって次のヴィクトリア朝期のイギリスの全盛に向けてひた走る時代でした。

 ナポレオン戦争も1815年には終結し、ヨーロッパは保守反動の時代に入りました。戦後は物価が下がったのですが、思いもよらない大不況がイギリスを襲ったのです。企業、銀行は倒産し、労賃は下がり多くの労働者が職を失い、労働争議が増加しました。こうした世情は、以前の封建時代や絶対王権時代には無いもので、将に現代に通じる資本主義時代の特徴でした。ジョージ4世が即位した1820年は、イギリス経済がこうした不況から回復し始める時期で、商工業、貿易が繁栄を取り戻し始め、労働争議も解消する様になったのです。 また1830年の総選挙では70年にわたるトーリ党の支配が崩壊し、ウィッグ党が勝利しました。これはトーリ党が保守派と進歩派に分裂したことが原因の一つです。またトーリ党の反動政治家カールスリーが死去し、自由主義者キャニングが外相に、ハスキソンが商務大臣に就任、自由主義勢力が大きくなったことが影響しました。

 ジョージ4世は、皇太子時代の1795年にドイツ公爵家の娘キャロライン・オブ・ブランズウィックと正式に結婚しましたが、愛人マリア・アンヌとの関係も清算せず、相変わらずの浪費生活が続きました。

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キャロライン・オブ・ブランズウィック

(今回の展示会には絵が無し)

 この結婚は皇太子の借金を父王ジョージ3世が清算する約束で父王が奨めた政略結婚でした。彼女はジョージ3世の姉の子で姪に当たり、ジョージ皇太子とは従妹同士だったのです。

翌1796年には長女シャーロット・オーガスタ王女が誕生しましたが、すぐに父親の皇太子と母親は別居状態になり、王女は王家(ジョージ3世家)が引き取り養育しました。

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シャーロット・オーガスタ王女

 皇太子の乱脈生活は相変わらず、母親も外国暮らしを始め、奔放な生活をするのです。皇太子は国王に即位すると、結婚したままになっている妻を王妃とは認めたくないので、議会に何回も離婚のための法案を通すように働きかけますが、議会の了承は得られませんでした。1820年のジョージ4世としての戴冠式には妻を会場から締め出し列席させませんでした。その翌日から彼女は体調が崩れ、病床に伏せることが多くなり、翌年ほどなくして亡くなりました。享年53歳でした。本人は‘毒を盛られた’と言っていたそうです。形の上では1年だけの女王でした。今回の展覧会では彼女の肖像画は展示されませんでした。皇太子が彼女を結婚相手に認めたのは、借金返済の事もありましたが、彼女は「肖像画の美女」として有名で、その絵画を見て結婚を決意したという説もあります。何故肖像画が今回展示されなかったか、その真意は不明です。

 一方ジョージ4世も、晩年にはそれまでの不摂生が祟ったのか通風や浮腫にむしばまれ、1828年には白内障となり、通風によって署名するのも難しくなっていたといわれています。こうして1830年にウィンザー城で亡くなりました。こちらは享年68歳、乱れた生活の人にしては長生きでしたね。

 さて亡き国王の後継ぎを誰にするか?本来であれば、一年王妃の嫡子シャーロット王女が第一の承継者であるはずなのですが、彼女は1816年にザクセンの公家の末子レオポルドと結婚して、翌年に男子を出産したもののそれは死産で、ほどなく母親も亡くなってしまったのです。従って、ジョージ4世には王位継承の直系嫡子、嫡孫がおらず、結果的にジョージ4世の弟、ウィリアムがウィリアム4世として即位したのでした。