《Ⅲハノーヴァー朝④》
前回ジョージ2世の子女が音楽演奏をしている絵画を引用しましたが、その絵を見る限り、兄と姉妹は仲睦ましく合奏しているように見えますが、実はこの兄妹は仲が悪かったらしいのです。中央でチェロを弾いている兄の王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)フレデリックは、両親ともしっくりしない関係で、それは、幼少から両親がロンドンに移っても、自分だけはハノーヴァーに留め置かれて、7歳から23歳まで両親と離れて育った環境によるものが大きかったでしょう。最も肉親同士が仲の悪いのは、ジョージ1世と父親のジョージ・オーガスタス(後のジョージ2世)の関係がうまくいかなかったことがそもそもの遠因でしょう。ジョージ1世はハノーヴァー時代、妻と実子であるジョージ及び妹のゾフィーがいるにもかかわらず不倫し、妻も同様に不倫して、怒った父が、妻との結婚を解消し、子供たちに母と会うことを禁じたというのです。そんなひどいことがあれば、父親を憎みますよ、普通の人間だったら。そうした怨讐が子孫に及んでいるのかも知れない。
フレデリックがロンドンに来てプリンス・オブ・ウェールズとなり、正式に父ジョージ2世の後継者に叙された後も、人々は「ハノーヴァーのプリンス」と呼んでいました。そうしているうちに、フレデリックは、1751年に胸部の怪我がもとで父王ジョージ2世に先立って、44歳で亡くなってしまうのです。余程運が悪い人ですね。気の毒なことです。
彼には妻、オーガスタとの間に9人もの子をもうけたので、長男(ジョージ2世から見れば孫)のジョージ・ウィリアム・フレデリックが、新たにプリンス・オブ・ウェールズに叙され、1760年にジョージ2世が亡くなると、王位継承者として22歳でグレートブリテン王に即位しました。ジョージ3世の誕生です。
彼はハノーヴァー朝として初めての英国育ちの王でした。丁度1760年頃から新しい機械と技術の発明が続々為され、生産技術と生産組織に大変革をもたらしていました。所謂産業革命の時代です。経済と生活の安定的発展は、都市人口の増加をもたらし、彼が即位した当時の人口(イングランド+ウェールズ)は670万人ほどだったものが、40年後の1800年頃には、890万人に、さらに彼が亡くなった1830年頃には、約1400万人弱と爆発的に増加したのでした。この時代約70年間の英議会はトーリー党の時代であり、またその上に君臨するジョージ3世はややもすると専制政治の方向に走るきらいがありました。莫大な政府支出を賄うため、植民地(特に北アメリカ植民地)課税を強化し、植民地との対立も激化していった時代です。1773年、ボストン茶会事件が発生、1775年のレキシントン・コンコードの戦いに発展して、結局ジョージ3世の専制主義的強硬姿勢が、1776年の「アメリカ独立宣言」に繋がるのです。
ジョージ3世の治世の後期は、たびたび精神疾患に苦しみ、1810年には回復見込みがない程の病状だったので、長男であるプリンス・オブ・ウェールズのジョージが摂政となり、1820年に崩御すると、その摂政がジョージ4世として即位したのでした。