1953年ドイツバイエルン州生まれのオピッツは今年67歳、長年ミュンヘン音楽大学で教鞭をとりました。今では数少ないウィルヘルム・ケンプの弟子です。ケンプは誰もが認める「ベートーヴェン弾き」、ケンプの弾く32番のソナタのCDが家にあったので事前に聴いておきました(普段はアラウのベートーヴェンソナタを聴いています。)
今回ベートーヴェン生誕250年を記念して各地で来日公演をしたのです。近場の横浜でも11月8日に演奏会があったのですが、曲目が別なものだったので行きませんでした。 今回はベートーヴェンの「最後の三つのソナタ」を弾くというので行ったのでした。なぜならば11月16日に「藝大奏楽堂」でソナタ32番を渡邊健二教授が弾き、それを聴いて感銘を受けたことと、最近30番、31番、32番の三つの曲が連番で入っているアラウが演奏するCDを、家で聴くことが多いことが、聴きに行きたいと思った大きな要因でした。
【日時】2020.12.11. (金)19:00~
【会 場】東京オペラシティコンサートホール
【演奏曲目】
①ベートーヴェン: ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 op.109
②ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 op.110
③6つのバガテル op.126
④ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 op.111
【演奏の模様】
開演となり登壇したオピッツは、白い短髪と短い白鬚に覆われその柔和さは如何にもドイツ人といった風貌で、今の時期、赤色のガウンと、毛糸の三角帽を被れば、立派なサンタクロース(🎅)そのものです(失礼)。
①挨拶の後すぐにピアノに向かい30番のソナタを弾き始めました。がっしりした体躯から伸びた腕も太くて頑丈そうです。しかし平たく構えた太い指から紡ぎ出される音は、ビアノとは、こんなに繊細できれいな音が出るのだと感動すらする響き、録音では決して味わえない音です。
オピッツは、終始落ち着き払って不動の姿勢でかなりゆったりしたテンポで弾いています。二楽章でも三楽章でも、右手の小指から出る高音のきれいな音、鍵盤を撫でる様にして弾いている。三楽章の終盤の速いパッセージも指をやや丸めて、あくまでソフトにタッチしていました。ソフト感が目立った演奏でした。
②この31番の曲は、30番、32番程深い精神性を感じるものではありませんが、メロディが親しみやすさがある曲なので、若い人にも人気がある様です。何故か世に売り出した初期の頃のソナタの初々しさも感じる曲です。
一楽章のModeratoでは、①の冒頭よりもさらに落ち着いた様子で、右手のしっかりしたタッチから、この世にこんなにも奇麗な澄んだピアノの高音が出るのかと思われる程の素晴らしい調べを奏でていました。録音では、何故この様な繊細さが出ないのでしょう。カットされている周波数の音のせいでしょうか?これはピアノの打鍵でなく、まるで鍵盤の愛撫ですね。
第二楽章の速いパッセージも不動の姿勢で演奏、軽快に歯切れの良い演奏でした。
三楽章のAdagioでは、ややせっないとも感じる主題をゆっくりと、しかし遅からず速からず絶妙のテンポで歌い上げていく、これはもう鍵盤に歌を歌わせているに等しいですね。低音のff部はズッシリとした重量感溢れる調べですが、やはり不動の姿勢で指を少し高くして、少し強く振り下ろす程度で音を出していました。如何に長い年月を演奏して、身に付いている音を軽々と繰り出しているかが分かりました。
長いフーガの最後は、相当力を込めて弾いていました。でもかなりゆっくりしたフーガでした。
《15分間の休憩》
今日の演奏会でもホール放送は、感染症防止対策とその注意点を繰り返し放送していました。一階席は市松模様ではなく、連番でチケットを販売した様なので、前の方の席はかなり入っていましたが、後部席になる程空席が目立ちました。コロナの急速な拡大で来れなかった人も多くいるのではないでしょうか。自分の席は、ピアノリサイタルの場合鍵盤の見え二階のⅬ席を選ぶ場合がほとんどなのですが、どういう訳か両隣とも誰も来ませんでした。幸運にも密を避けることが出来たので安心して鑑賞出来ました。
③『バガテル』とは、フランス語の“Bagatelle”が語源で、もともと“つまらぬもの”の意味ですが、いい意味で使う場合は “小さくて愛らしいもの” 位の意味です。有名な用法はパリ16区にある『La Roseraie de Bagatelle(バガテル薔薇園)』です。
広大なパリのブローニュの森(約850万㎡)にある“Parc de Bagatelle(バガテル公園)”の一画にある薔薇園です。語源は“バガテル城(1777年建造)”から来ているみたい。
確かにお城というより‘小さな館’ですね。フォーレやドュビッシーやラベルが活躍していた時代にもあった薔薇園です。ベートーヴェンはこの薔薇園は知らなかったでしょうが、バガテル城の事、特にその建造期間についてマリー・アントワネットが義理の弟のアルトワ伯に賭けで負けたエピソードはきっと知っていたことでしょう。
ベートーヴェンのピアノ作品『6つのバカデル作品126』はピアノ・ソナタという程ではないけれど、6つの愛らしい小作品の意味です。その他にもバガテルをベートーヴェンは書き残していますが内容的にも纏まりから言っても、この126番が一番有名です。一連のソナタ全曲を書き終わった後の最晩年のピアノ曲です。何れも数分の短い曲で全体でも約20分です。 第1曲は初期のピアノ・ソナタを思わす様な優雅な響きがあり、時々左右少しずれる様な音があるリズムの処も面白い。第2曲はバッハ的対位法の様な左右の指から繰り出す音の掛け合いが見事 第3曲は心に染み入るゆったりした落着いた旋律で長いトリルが美しい。 第4曲は軽快で力強いリズミカルなくるくる回って踊っている場面を連想してしまいそう。聴いていてさみしさが募る第5曲、最後の6曲は結構激しくて速い導入の後、スローなどこかショパンを思わすようなメロディ、これ等をオピッツは前半の二つのソナタで見せた優美さとしっかりとした指使いで見事な一連の絵巻として描いて見せたのでした。
④32番のソナタは、ベート-ヴェンのソナタの中では少数派の二楽章構成(19、20、21、22、24、27、そしてこの32番)ですが、二楽章構成のソナタには、いい曲が綺羅星の様に輝いています。 21番『ワルトシュタイン(27分)』、24番『テレーゼ(10分)』の名称付きは勿論のこと、20番(9分)もなかなかいい曲なので好きです。最後のソナタ32番(30分)に至るとこれはもう、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの集大成・最高傑作と言って良いでしょう。二楽章構成の曲達の中でも異例の長い曲で、如何にベートーヴェンが力を尽くしてこの32番を作曲したかが伺えます。
さて一楽章の冒頭で、左手⇒右手⇒左手⇒右手でババーン、ババーン、ジャジャ、タララララララララ というかなりドラマティックな音が立ちましたが、オピッツは今日の演奏の中でも最大と思われる大きい音量で、力を込めて演奏していました。それを二回繰り返した後の不気味な低音も、強い調子でリズミカルに表現、そして速いパッセージに移ると「忙中閑あり」というより「急中緩あり」の微妙な速度の変化で以て表現性豊かに弾き、その匙加減は見事と言う他無かったですね。最終音は随分と長くペダルを踏んだまま伸ばして消え入る様に終了しました。
二楽章は長い楽章ですが、最初のAdagioの主題は随分とゆっくりしたテンポで始まり、丹念に音を紡ぎ出しています。兎に角音が綺麗。主題が次々と変奏され、速く小さな音の部分でドンと足がステージを踏みつける音が二三回聞こえましたが、これはペダルを踏んでいた足を離して床に戻す時音がしたのでしょうか?
最終場面で、右小指でメロディの音を飛び飛びに出し、両手を揃えながら他の指は伴奏的に弾いていく箇所では、最高音が何と素晴らしく響いた事でしょう。兎に角、格が違う感じです。 将にもう巨匠の域にいると言っても良いのでしょう。
ケンプやゼルキンやアラウより、旋律表現も演奏法も随分淡々としたものでした。 でもこの3人の名人の中ではケンプに一番近い奏法かな?
まだ60歳後半ですから、これからズーッと世界のピアノ界をけん引して、末永く我々音楽愛好者を楽しませて下さい。