<ミラノ十一月十八日>
前回<ミラノ十一月十五日>の記述では、スタンダールは、カノーヴァという彫刻家とミケランジェロを比較して論述していることを書きましたが、三日置いて今度はミラノ史に関し、ヴェッリ伯という作家の「ミラノ史」を興味深く読んだことをピックアップして述べています。 1063年以降1515年のマリニャーノの戦いまでの“陰謀や、野心、愛、あるいは復讐による殺人や公益上の大施設建造や1789年のバスチーユ占領 のような十もの民衆蜂起”に非常に興味をもったとスタンダールは言っている。そう言えば、フランス革命以前の”民衆蜂起”について詳細を記したヨーロッパ史は少ないのでは?我が国では、江戸時代は農民一揆が多発したのですが、明治以降、民衆蜂起は余り起きなかったのでしょうか?「秩父事件」は日本史の授業でも出て来ましたが。米騒動は、”民衆蜂起”とは、言えないですしね。
ここで、”マリニャーノの戦い” とは、1515年9月13~14日イタリアのマリニャーノ (現メレニャノ) で戦われたフランス=ベネチア連合軍とスペイン側のスイス軍との戦闘です。ミラノの領有権をめぐってフランスとハプスブルク家は争っていたのですが,スペインのハプスブルグ勢力を駆逐するため、フランス国王に即位したフランソア1世は、ベネチアと同盟してミラノ公国に攻め入り、ミラノと同盟していたスイス軍との戦闘となったのです。結果は,ベネチア軍と結んだフランス軍がスイス軍を破ることで終り,1515年 11月に両者の間で和平協定が結ばれました。ミラノはフランスの支配下に入ったのです。
さらにスタンダールは、ミラノの「ヴィスコンティ家」などの歴史に興味を持った様です。14世紀初頭の共和国時代、“マッテーオ・ヴィスコンティは、共和国を倒し、王になろうとするが、~(略)~クリヴェッリは、陰謀者の一人の妻だが、二千の男を集めて、王位簒奪者を攻撃する(1301)” “マッテーオ二世・ヴィスコンティは、かれの兄弟たちによって毒殺される。(1355)” “(初代ミラノ公)ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティはその叔父を毒殺する(1385)。 しかしかれは、ミラノのドゥオモを建てる。”
“ミラノは共和国を宣する(1447) ” “フランチェスコ・スフォルツァ(1450)がこの共和国を、ちょうどボナパルトがわが共和国(フランスのこと)を扱ったように扱う。しかしかれの息子ガレアッツォがサン・ステファノ教会で暗殺される(1476)。” などなど、専制勢力と共和勢力のせめぎ合いの中で、暗殺によってその局面が大きく動いたことを示唆しています。
それにしても『毒殺』が多いですね。ローマ帝国時代の名残なのか?15世紀末から16世紀初頭には、“毒を好んで使ったチェーザレ・ボルジア”に引き継がれていくのです。
そう言えば、チェーザレの妹、ルクレツィア・ボルジアに関するオペラをドニゼッティが作曲していましたね。
さらにスタンダールはP***夫人の勧めでモンツァに行き、往時のロンバルディア王の鉄の王冠や、雉飼育場、八つの鐘のついた鐘楼を見たことを記して、“実際鐘の音は音楽の一部だ”と言っています。確かに鐘の音は独特の響きと音程や調べを有しており、多くの音楽にも用いられています。ヘンデル、モーツァルト、シューマン、ドビュッシー、スクリャービン、ラフマニノフ他多くの作曲者たちが鐘関係の曲を作っています。そう言えば先月8月17日の『ららら♪クラシックコンサート』で近藤嘉宏さんがラフマニノフの『鐘』の一部をピアノで弾いていました。機会があれば今度全曲の演奏を聴きに行きたいですね。