【第二幕の概要】
スクリーンには2001年の字が投影、世界貿易センタービル崩壊などが映し出されました。オペラ場面は監獄の深い地下牢、オケの不気味な調べを伴いながら、地下牢にうずくまり蠢く人影。暫しオケの調べが続いた後、人影は立ち上がり呻く様に歌い出します。
レオノーレ(フィデリオ)の夫のフロレスタンの登場です。フロレスタン役福井さんは、テノールにしては渋い歌唱で、喉の奥から呻くが如く心の叫びを詠唱しました。“In des Lebens Frühlingstagen ist das Glück von mir geflohn!(①春の如き我が人生の時節に、幸運は飛んで逃げ去った) Wahrheit wagt ich kühn zu sagen(②大胆にも私は思い切って真実を口述した), Und die Ketten sind mein Lohn.(③そして鎖につなげられることが、私への報いである)~(略)~ Und spür ich nicht linde, sanft säuselnde Luft?(④そして私には感じられないのか?穏やかなかすかなそよ風が音を立てるのを) Und ist nicht mein Grab mir erhellet?(⑤私の墓が私を明るく照らすことは無いのか?) Ich seh', wie ein Engel im rosigen Duft sich tröstend zur Seite mir stellet(⑥私には見える、 薔薇の香りのする一人の天使が私のそばに、元気付けようとして立っているのを~)”
このアリアはそれ程長くないのですが、多くの含蓄のある個所だと思います。
即ち①②ではこの物語のそもそもの起源、その詳細は不明なのですが、何故この様な状況が生じたか、また③でどのような状況に陥ったかを僅かにではありますが、仄めかしています。つまり、フロレスタンは無実の罪でなくて、ホントの事を言ったため地下牢に繋がれたというのです。“wagt”は敢えて~する、危険を冒して~するということで、敢えてしなければ良かったのかも知れませんが、真実を黙っていられなかったのでしょう。それを言ったため牢に繋がれたということは、想像たくましくすれば、裁判での陳述の場での発言であっただろうと考えたい。これは第一幕5場での署長ピツアロのアリアで“Schon war ich nah, im Staube, dem lauten Spott zum Raube,Dahingestreckt zu sein.Nun ist es mir geworden, den Mörder selbst zu morden;”と歌い、すんでのところで自分は死ぬところだった、殺されるところだったとフロレスタンを憎悪する理由を述べていましたが、これと考え合わせると、次の様なストーリーを想像してしまう。
「かってフロレスタンはピツァロを襲撃したが、ピツァロは命からがら逃げおおせて、フロレンスは失敗に終わってしまいます。告訴されたフロレスタンは、尋問で殺意があったかどうか訊かれ、正直にYesと答えてしまい、殺人未遂罪の罪となってしまう。」ここでNoと言わないまでも黙秘することが出来たでしょうに、正直過ぎたのですね。その後監獄署長となったピツァロは、服役していたフロレスタンを、無法に(裁判を通さず)勝手にフロレスタンを重罪人を収監する地下牢に移して、その死を待っていたのでしょう。こう考えれば、オペラで歌われる全ての歌の辻褄が合い、無理なく解釈出来るのですが。
また④ ⑤の歌のによると、レオノーレがすぐ近くに来たことを、フロレスタンが直感的に感じ取っていたのではなかろうかとも思われる伏しがあります。
さて次の場面は、署長ピツアロの命令により、墓穴を掘るためロッコが地下牢に降りてきて、フィデリオと二人で古井戸の土砂を取り除く作業を進める場面です。
この1場と2場の間で間奏曲として、オケが『レオノーレ序曲3番』を演奏することもあるのですが(5場と6場の間のケースもあり)、今回の演出では、この曲は間奏曲としてではなく、第一幕の最初の序曲として演奏されました。これはプログラム中にも記載が有り予告されたことです。
作業を進める二人は、地下牢の近くで何やら蹲っている囚人がいることに気が付き、フィデリオがよく見ると、それがレオノーレが探し求める夫のフロレスタンだということが分かったのでした。
飲み物とパンを与え、フロレスタンはいたく感激・感謝して、ロッコ、フィデリオとともに三重唱を歌うのですが、これが大変良い出来でした。ロッコは実は心優しい看守長なのだけれど、業務に忠実にしている人だということは明らかです。拍手する隙も無くすぐ次の3場に進みました。
この地下牢に登場した監獄署長ピツァロは、一刻も早く墓穴を掘ってフロレスタンを消さねばと焦っています。それもその筈、セヴィ―ジャの大臣が、不審情報を聞いて抜き打ち検査にやって来るからです。不法な収監があるのではないかという不審情報。
ここで、フィデリオは初めてレオノーレであることを明らかにし、ピツァロと対決します。監獄署長は二人共殺そうとしたその瞬間、トランペットのファンファーレが鳴り大臣フェルナンドが到着、形勢は逆転してしまう。フェルナンド役バリトン黒田さんはオーソドックスなバリトンで堂々と歌い上げていました。
俄然喜ぶレオノーレとフロレスタンは、その奇跡的瞬間を二重唱で歌います。二人はそれまで、ソーシャルディスタンスを保って歌っていましたが、最後はさすがに喜び(Freude)を表すため近づいて抱き合いました。例外は一つ位は許されるでしょう。勿論PCR検査で前もって陰性を確認しているのでしょうから。
レオノーレ役の土屋さんは、益々エンジンがかかり、声量も上がって絶好調になって来た感じでした。
最後のフィナーレでは赤いスーツを着たレオノーレと車椅子のフロレスタン達が、歓喜の調べを合唱団の後押しと共に、高らかに歌い上げます。これは第9の歓喜の歌の先駆けとも言える、べートーヴェン自信の心の叫びだったのかも知れません。
尚、演奏が終わると掛け声の無い拍手のみのカーテンコールに応じて、舞台上には何回か出演者と関係者が横一列に並び、舞台右端には舞台奥まで緩やかな弧を描いて、距離を空けて一列に合唱団が整列しました。いつまでも鳴りやまない大きな拍手は、これまでのコロナ禍による出演者のご苦労、また我々鑑賞する側の辛抱とストレスに、十分報えることが出来たオペラ演奏だったという証しに思われました。
今回の様な古典的伝統オペラを通して、近現代の諸問題を投影しようとする大胆かつ意欲的な演出は、クラシック界ではやや分かりづらく、理解できないケースが多々あるかも知れません。しかし映画分野では、特に珍しくもなく普通に当たり前に行われて来た手法です。伝統的なクラシック音楽に浸っているクラシックファンが、どこまでその意味合いを読み取れるかについては、若干疑問が残ることは確かです。100年前、200年前の音楽を、当時の時代背景でとらえ鑑賞することは基本ですが、その上に立ってそれが今現在の我々の生活、社会、世界にどの様な意味合いを有し、どの様な存在なのかを読み取り、今後どのように発展させれば良いのかを考えることは、クラシック音楽をさらに広めて生活の身近なものとし、豊かな生活の一助とし、ひいてはクラシックの更なる発展興隆に繋げる一縷となるではないでしょうか。まさに『故きを温ねて新しきを知る』です。音楽に限らず、古典と謂われる他の文化分野でも、そこに触れてその意味合いを常に考えることは、今更言うまでもない常套手段です。こうしたことから考えると、困難な状況の下で成し遂げられた今回の「新制作フィデリオ」のオペラ演出は、むげに否定するのではなく、大いにその意欲を評価して今後の糧にすることが重要かなと思われました。
ところで、ロンドン交響楽団、バイエルン放送、ハンガリーと来日公演がほとんど中止になりましたが、残るウィーンフィルはどうなのでしょう?楽団の活動は現地では動き始めている様ですから、あとは飛行機が飛べるかどうかですね。政府も渡航禁止の例外までは出せないでしょうから、オーストリアとどこか飛行機が飛んでいる国で、しかも日本との渡航禁止が緩和された第三国(果たしてそんな国有るのかな?)経由で来日出来ないものかな?勿論楽団員全員のPCR陰性確認、または抗体検査で抗体確認が必須ですが。来日後は何日間か練習期間として外部との接触を絶ち、クッションを置いて演奏会に臨むとか、日本人!、何か世界に先駆けるディファクトスタンダードとなる様な知恵が出てこないですかー?