HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

ベートーヴェン生誕250周年記念二期会オペラ 『フィデリオ〈新制作〉』観劇 ―第1幕―

 これは、9/3 9/5 と9/4 9/6の四日間、ドイツ語上演、ダブルキャストで 新国立劇場オペラパレスにて実施されているもので、昨日木曜日(2020.9.3.18:30~)の初日を観てきました。

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 久し振りに見る本格オペラです。“本格”と言っても、このコロナの時代、客席は係員の話では、約1800の座席のうち半数800台程度を使用し、ステージでは歌手がソーシャルディスタンスをとって歌い、透明の大きなプラスチック幕を天井から下げて、 後方の歌手と前方の歌手とを隔絶したり、或いは舞台とオケピット空間を隔絶し、観劇するには支障無い様に工夫を凝らしている。この幕は、同時に映像を写すスクリーンにも早変わりしていました。でもホールを概観すると、最近久しく見なかった多くの観客が大ホールに満ちている様に見える、開演前から本格グランドオペラ観劇の雰囲気一杯で期待が膨みまた。      

 今回は”新演出”ということで、時代背景をベートーヴェンの時代でなく、ナチス以降の戦後から現代までをあてはめ、『Freiheit(自由)』と言うキーワードにて、この物語の本質とダブらせて表現するといった手法をとっています。演出家は深作健太、もともと映画監督でオペラも手がけ、このフィデリオで第3作目とのことです。

 道理で、スクリーンに写す映像や文字がタイミング良くて上手な訳です。冒頭、『ARBEIT MACHT FREIHEIT?(働けば自由になれる)』といった言葉を幕に大きく映し出していましたが、これは、アウシュビッツの門に刻まれていた言葉だそうです。

 

【演目】

ベートーヴェン作曲『フィデリオ』全2幕

 

【会場】

新国立劇場オペラパレス

 

【演出】

深作健太

 

【オーケストラ】

大植英次指揮 東京フィルハーモニー交響楽団(基本2管編成、弦楽五部8型の変形か?オケピット内部が良く見えない)

 

【合唱】

二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部の各メンバーで編成

 

【配役・出演】

◉ドン・フェルナンド 黒田 博

◉ドン・ピツァロ(監獄署長) 大沼 徹
◉フロレスタン(刑務所幽閉中、レオノーレの夫) 福井 敬

◉レオノーレ(フロレスタンの妻、フィデリオとして男装) 土屋優子

◉ロッコ(看守長、マルツェネーリの父親) 妻屋秀和

◉マルツェリーネ(看守長の娘、フィデリオに首ったけ、元彼ヤッキーノをうざったく思っている) 冨平安希子
◉ヤッキーノ(マルツェネーリの元カレ、結婚を目論んでいる) 松原 友
◉囚人1 森田有生
◉囚人2 岸本 大

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初日配役

                                   

                                 

                                ※原語訳 hukkats 

 【第一幕の概要】

 原作台本はフランスの作家ブイイの『レオノール』、これをドイツ語に訳された台本にベートーヴェンが作曲した様です。ベートーベンも何回か改訂を加えている様で、当初は3幕物だったそうです。新演出ということで現代の社会と重ね合わせているので、原版の独語歌詞をそのまま歌ったのでは齟齬が生じないかなと心配しましたが、演出家の腕がいいのでしょう、全く杞憂に終わりました。歌う内容がうまくその時々の時代設定に合う様な演出をしていました。例えば最初の第1幕1場で、時代は1945年と映像が出る。ヤッキーノがマルツィリーネに真剣に結婚をしつこくせまる度に、小型タンクまがいのリヤカーの様な移動車がやって来て二つのランプ光と音を発するのでヤッキーノは気が散ってしまいます。

 ヤッキーノは“Zum Henker, das ewige Pochen!”と悪態をつき、一方彼女は“Das ist ein willkommener Klang, Es wurde zu Tode mir bang.”とKlang(音)が鳴ってヤッキーノの矛先が鈍ったことを歓迎します。屋内のセットの中での会話であれば、音はドアのノックかも知れませんが、今回は奇妙な形の移動車が近づいて音を立てるのです。現代的なアレンジか?

 次にマルツィリーネ役の冨平さんが、2場の最初で歌うアリアは仲々綺麗なソプラノで、フィデリオに寄せる未来の生活のあこがれが、良く表現出来ていました。でもややこじんまりしているかな、声量も声の質も。この歌の中で “~Der Fleiss verscheucht die Sorgen.(勤勉でいれば心配など取り払える)” という言葉に対し冒頭の標語の『ARBEIT MACHT FREIHEIT?』は対になっているとも見なせると思います。

 即ちこの標語は、アウシュビッツの収容所で強制労働に携わるユダヤ人達が如何に働こうと自由は得られないのです。得られますか?いや得られないという反語の言葉だと解釈したい。その少し前でマルツィリーネはこうも歌います。“Wenn nichts uns stört auf Erden Die Hoffnung schon erfüllt die Brust” ここの『Hoffnung』はこのオペラのキーワードの一つです。会場で販売されているプログラムに掲載されている演出家(映画監督)深作氏の演出ノートによれば、“[Hoffnung(希望)] [Arbeit(労働)] [Freiheit(自由)] の原作台本の中で重要な三つの言葉から、今回の演出コンセプトは作られました。”と書かれています。マルツィリーネの胸は希望で一杯だったのですね。やがてそれがはかない幻想だと分かる時が来るのですが。

 第3場、第4場に登場する看守長ロッコ役の妻屋さんは、それ程重いズッシリしたバスでは無かったですが、落ち着いて堂々とした歌声で聴衆を魅了していました。同場面で初めて登場したレオノーレ役の土屋さんは、既にフィデリオとして男装していましたが、声量のある場内にかなり響く歌声で歌っていました。ただ残念なのは声のチューニングが完璧でないのか調子がいまいちなのか、声に少し雑味が混じり、時としてはわずかに割れているのかなと思われる時がありました、特に高音部で。拍手もまだまだの感じ、それに対しロッコにはかなりの拍手がありました。

 4場でのマルツィリーネ、フィデリオ、ロッコ、ヤキーノの四重唱は皆さんよく互いに合わせて歌い結構な出来でした。歌い終わったら大きな拍手をしようと思っていたら、次の場面にオケと演出がすかさず移ってしまい、拍手出来ませんでした。場内からは1,2秒パラパラと聞こえた拍手がすぐ止んでしまった。楽譜上指示があるのかどうか分かりませんが、オペラでは指揮者とオケは、歌手が歌い終わったあとの観客反応を瞬時に見極めて、次に進めことが大事だと思います。こうしたことはその後の場面でも何回か生じました。

 世界のオペラ界では、歌手のアリアの歌い振りが見事な場合、歌い終わっても大きな拍手が、アンコールを求めて鳴りやまず、歌手が同じアリアを又歌うということが珍しくありません。

 四重唱の後、ロッコが、愛はお金に裏付けられたものでないとうまくいかないと、フィデリオに歌い聴かせるアリアの中で、“~Wenn sich nichts mit nichts verbindet, Ist und bleibt die Summe klein~” と歌う言葉が懐かしく思えるのです。何故かというと、個人的経験なのですが、学生の頃とある予備校に行ったのですが、そこの英語の名物教師が授業で「ゼロを百万位集めればほんの少しでも、僅かな量にでもなるのでは、との考えがあるかも知れないが、それは違う。ゼロはいくら積み重ねてもゼロはゼロなんだよ」と言ったのです。一種のカルチャーショックですね。確かに僅かであっても「蟻のひと穴」という言葉もある位だから、ゼロでも何らかの足しになるのではなかろうかという漠然とした気持ちが自分の意識に潜んでいるということに気が付きはっとしたのでした。その後人生経験を色々した今となっては、必ずしも賛同できる考えではないと思いますけれど。

 さてオペラに戻りますと、映像の時代設定は1961年ベルリンの壁の建設の時代です。東ドイツ、ソ連の登場と秘密警察に象徴される監視国家、そこでは自由が抑圧されるのです。オケが高らかに行進曲を響かせ、続く5場で監獄署長ピツァロ役の小沼さんが登場し歌い始めますが、立ち上がりは声量はあるがエンジンがかからない感じ、しかし次第に歌が良くなってきました。「Schildwachen(歩哨・見張り)」「vorstehen (管理している)」「mehrere Opfer(何人かの犠牲者)」「willkürlicher Gewalt enthalten(専横権による幽閉)」などの言葉が多く飛び交い、まさに監視国家の象徴の様な存在です。ここで所長は、看守長ロッコに最重要囚人フロレスタン(男装しているフィデリオの夫)の殺害を命じ、ロッコが躊躇していると自らが手を下し殺るから、ロッコは墓穴を掘れと命令を緩和するのです。ここで初めて牢獄の衛兵たちの合唱が加わります。合唱部員の姿は見せず、不透明色に投影された舞台幕の奥からその歌声は聞こえてきました。この姿を見せない合唱スタイルは1幕も2幕も同じ形態をとり、従ってどの様なコロナ感染対策を取って歌っているかは分からずじまいでした。プログラムによると合唱団員は二期会、新国劇、藤原歌劇の合唱団員2~5名づつ集められて形成している様なので総勢40名規模かと思われます。

 

 衛兵たちのコーラスは結構な迫力でした。ピツァロがこのコーラス付きで、フロレスタンを殺害する決心を歌うのでした。ここで初めてこうしたオペラが歌われている牢獄(監獄)の場所が特定されます。

ピツァロが “~Sehen Sie mit der grössten Achtsamkeit auf die Strassen von Sevillia.~”と歌うのです。署長役の大沼さんの歌声は尻上がりに良くなってきました。セヴィリアからの通り道をよく監視せよというのです。セヴィリア、又の名をセヴィ―ジャ。そうこの物語はスペインの話だったのですね。そう言えば、ロッシーニにも『セヴィリアの理髪師』がありますし、モーツァルトはその関連オペラとも見なせる『フィガロの結婚』を書いています。従ってこの牢獄のある場所はスペイン、セヴィリアの近郊の地域だと推定されます。

 このピツァロの言動を、牢獄への同行をロッコに許されたフィデリオが蔭で聴いていて、復讐心と夫の解放を求める気持ちが一段と強くなり、その悲壮な決意をアリアで独唱するのです。“~Komm, Hoffnung, lass den letzten Stern~(希望よ、ついこの間まであった輝く星を来させて)~”と高らかに、近未来を希望に託するのです。フィデリオ役土屋さんは、益々力強く歌いましたが、やはり高音の声が雑味を僅かに含み気になりました。でもドイツ語の発音は一番ハッキリ聞こえました

 舞台スクリーンには「FREIHEIT」の大きな字幕が映され、また何か大きな三色旗を振る人の様子やかの有名なドラクロアの絵画「民衆を導く自由の女神」の映像が映し出されました。1989年の文字も。この年はベルリンの壁の崩壊の年です。

その間歌の方はフィデリオの提案で、軽い罪の罪人に一時の解放感を味わわせてみるという試みを、ロッコは越権行為だとは知りながら許すのです。ここの9場で囚人たちの合唱が歌われました。やはりここでも「Freiheit」や「Hoffnung」という言葉が聞こえます。スクリーンにはさらに「ドイツの復興」の文字が。

次の11場は、ロッコがフィデリオを署長が殺そうとする囚人のいる地下牢に連れて行くと言うと、辛さの余りフィデリオは、胸がはり裂けんばかりですが、そこに娘のマツェリーネと元カレであるヤキーノが慌ててやって来て、囚人達を中庭に一時出したことを、

署長のピツァロが聞き付けて怒ってやって来ると知らせます。

 最終12場で、署長はロッコの言い訳を聞くとすぐに、地下牢に直行し墓堀りを直ちに行えと命令、つかの間の自由を味わたものの、すぐに牢に戻された囚人たちは、再び絶望の生活(懲役、強制労働などもあるでしょう、きっと。)に戻された暗い気持ちを合唱で歌います。“~Schon sinkt die Nacht hernieder, Aus der so bald kein Morgen bricht.”ここの「sinkt die Nacht(日は沈み夜となり)」「すぐには輝く朝はやって来ない」という虚しさが、冒頭の「働けば本当に自由になれるのだろうか?(いやなれない)」という言葉の意味を裏付ける結果となっていると思いました。

                           (続く)