HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

スタンダール『イタリア紀行(1817年)』散読Ⅵ

<ミラノ11月18日>
 1827年版「イタリア旅日記」では、十月二日の日付が付いています。しかしこのスタンダールの旅行記は、日時や年はもう気にしないで読んだ方が良いのかも知れません。そもそも、1817年版はその年に旅行したのではなく、1811年に旅行した記憶に、1817年の政治情勢を考えながら紀行文を書きしるしたのです。従って、1827年版で1817年版のほとんどをそのまま利用したということは、1811年という十六年も前に旅し見聞きしたことが中心となっているので、1827年時点では、あり得ないこともそのままにしている。例えば、2020.4.10.付hukkats記事“スタンダールの見たミラノ『イタリア旅日記』散読”にも書いた、当時の名バス、ガッリの歌声に関して、スタンダールは“僕が出会った最良の役者の一人である。僕がこれまでに聞いた最も美しいバスの声である。それはこの広大な劇場の廊下にまで響く”と書いているのですが、これについて訳者の臼田紘氏は、「1816年の声を記したものが、十年後にもまだ事実であるということはほとんどありえない」と注に記しているのですが、これは1811年に聞いたガッリの歌声の可能性があります。従って十六年も経つ訳ですから、やはり訳者の言う通りかも知れません。
 さて、この日に観た『青銅の頭像』の上演に、スタンダールは甚く感動した模様で、出演歌手の名を一人一人挙げながら、その歌い振りを評しています。大公役のガッリよりも総理大臣役のレモリーニの方が聴衆に人気で、短い「ああ、幸福なる瞬間よ」のアリアの詠唱が熱狂的な人気で評判であるとか、カストラートと同棲しているはたちのソプラノ歌手ヴェッルーティの歌声は、スカラ座の様な広い劇場は向かず、小さな劇場が必要だ(即ち声量がない)とか(19世紀初頭にはまだカストラートがいたのですね。19世紀中葉には殆ど見当たらなくなったとベルリオーズは書いている様ですが)、公爵の従者役のバッシに関しては“バッシは見事だ。彼に欠けているのは魂ではない。もう少し声量があったらどんなに素晴らしい喜歌劇歌手であろう”等と書いています。尚この日の記事で特筆すべきことは、スタンダールはバッシについて、1817年版の内容にかなり補足して記述したことです。
 即ち1817年版の“~彼はいつもハンガリーの公爵の臆病で神経質な従者である。”の文に続く“美しい声とみずみずしい魅力には、冷たい心が必要だ。”の間に、以下の文を挿入・補足しているのです。
 【フランスではこのくらいの才人(バッシは魅力的な喜劇を書いている)になると、誰も聞いていないときでも、自分の役柄を重視することは、滑稽に陥ると心配するだろう。僕は今晩この考えをかれに突きつけてみた。かれは僕にこう答えた。「ぼくは自分を楽しませるために演技します。初めて役を演じた頃に、僕の想像力が目の前に彷彿と浮かばせた一人の臆病な従者を、僕はなぞっています。今では舞台に出ると、臆病な従者になることに楽しみを覚えています。もし客席を見たりしたら、死ぬほどうんざりするでしょう。ぼくはすべてを忘れてしまうんだとさえ思われます。それに僕は声量がありませんから、よい役者でなかったとしたら、どうなるでしょう。】
 この処はスタンダールの音楽観を理解する上で重要な点だと思います。この日の記事及びそれ以前の記事で素晴らしい歌声や声量の歌手をほめそやして書いていますが、実はオペラは、音楽は、それだけで成り立っているのではない、何か足りない点(例えば声量)がある音楽家でもそれを補う何物かを持っている場合は、素晴らしい音楽家だという考えを持っているのです。こうした観点から音楽やオペラを鑑賞すると、きっと今までとは違った別な世界が舞台に見えてくるのかも知れません。これまでタイトルロールを歌う歌手や素晴らしい歌声と思われる歌手に夢中になって鑑賞する傾向のあった自分の姿を振り返えり、今後少し頭に入れて置きたい注意事項だと思いました。