<ミラノ11月12日>
この日付の記事は『イタリア旅日記』では9月27日(ミラノ到着後4日目)となっており、あたかも前日の記事(11月10日)の記事と連続する翌日の様に装って書いていますが、実際は到着後9日目の記事なのです。何故この様な小細工をしたのかな?ややこしいったらありゃしない。
ここでスタンダールは、スカラ座公演の『青銅の頭像』の話の筋について触れました。要約すると、
ハンガリー公爵(実は王であるが、ミラノ警察がオペラで“王”の語を使用するのを認めないらしい)が、ある両親を知らない若い士官(実は公爵の私生児)の幼な妻(密かに結婚している)を愛してしまっている。そして少女と結婚しようとしていることを聞きつけた若い士官は、彼の庇護者である総理大臣の処へ(訴えに)乗り込んで来るが、もともと士官を公爵に認知させたい考えを持っている大臣は、若者を公爵に知られない様に、城の地下に匿ってしまうのです。ところが別の下僕一人も(何故かは不明ですが)地下室に入れられ、開けて貰いたが一心で、大広間の「青銅の頭像」の台座の下にある地下室の円天井を叩いてしまうのです。それが開けてもらう合図だということを下僕は知っていたからでした。だがそれがため隠れていた若い士官も公爵の知るところとなり、山に逃亡するも士官は捕まってしまい、銃殺刑を執行されるところとなりました。ところが総理大臣は公爵のもとへ急ぎはせ参じ、この士官こそ公爵の落とし子だと打ち明けるのです。公は喜びで一杯となるのですが、将にその瞬間、死刑執行の銃声が鳴ったのであった。
スタンダールの記述を引用しますと“判決を執行する銃声が聞こえる。その忌まわしい音にはじまる四重奏と、喜劇から悲劇への調子の転換は、モーツアルトの楽譜のなかにあってさえも、感動的なものになるであろう。考えてもみるがいい、一青年の処女作なのだ。(略) ソリーヴァ氏は、二十五歳である。彼の音楽は、久しい以前から僕の聞いたもっとも力強い、もっとも熱情的な、もっとも劇的なものである。一瞬のたるみもない。天才なのだろうか。”
と、このオペラの作曲家、ソリーヴァに相当の高い評価をしているのです。さらにスタンダールは、モーツアルトがイタリアで有名になりつつあることと、ソリーヴァの音楽はモーツアルトを想起させるとまで言っています。
ところで、これを書いている最中にチケット会社からメールが入り、6月に予定されていた『パレルモ・マッシモ劇場来日公演』が中止となったとの知らせがありました。
この劇場には行ったことがないのですが、映画で観て余りにも有名なシーンの記憶は鮮明です。 それは『ゴッドファーザーⅢ』のラストシーンで、劇場内で催行されたマフィア一家の音楽会が終わり、入り口に出てきたところを、敵対するマフィアの銃撃にあい、銃弾は愛娘メアリに当たってしまうのです。この時メアリ役を演じたのが有名監督コッポラの娘、ソフィア・コッポラでした。そう、一昨年9月の『ローマ歌劇場来日公演』で『椿姫』の演出をした女性です。映画監督もしている彼女の演出は光っていました。(参考まで、その時書いた感想の記事を文末に再掲します。)
是非聴きたいと思ってチケットを既に購入していましたが、完全な中止でなく、一年後(2021年6月)に演目、出演者を変えて、来日公演を行うということなので、チケットはそのままとっておいて(払い戻しも出来るそうですが)、それをその公演で使う予定です。
≪再掲≫
『オペラ椿姫考』 投稿: hukkats | 2018年9月12日 (水) 01時45分
先ずこの場をお借りして今回の北海道大地震の被害を受けられた方々に心からお見舞い申し上げます。我が祖国は最近相次いで天災に見舞われ、このままではどうなってしまうのでしょうか。先の水害、台風、地震等のすべての被害者の皆様に個人的にほとんど何も出来ず申し訳無い気持ちで一杯です。地震予知が困難ならば、然るべく機関での土砂崩れの予防の参考になると思われる情報の収集(例えば新規地質調査による全国活断層図の高精度化、全国地盤図の高精度化etc.)、各地の「震災予防計画」の立て直し等々を早急に企かる必要があるのでは?又強靱な防災国家を目指す、新たな「日本列島改造計画」は必要ないですか?やはりネックとなるのは先立つものでしょうか?
マリア・カラスは、スカラ座の主(ぬし)の座を、観客を黙らせて呼び込む万雷の拍手、華やかな花嫁の座等々、異常なまでの強い意志で引き寄せ勝ち取って来たのでしょうか。私の考えでは、後日触れますが、観客と歌手の相互作用で互いに高みに達するのだと思います。観客が良い影響を及ぼして歌手を大きくし、反作用として歌手が観客に良い影響を及ぼし、良い客を引き寄せて観客を向上させる。共同作業というか「共生」して音楽をさらに楽しいものにしたいものですね。
ところで先日、来日中のローマ歌劇場日本公演初日(H30.9.9.)の椿姫を聴いて来ました(at 東京文化会館)。実は昨年10月に、今回とほぼ同じメンバーと内容で映画化されたものを、TOHOシネマズ日本橋で見ていたので、ある程度の予備知識は持っていました。一貫して「女流映画監督ソフィア・コッポラ演出の椿姫」「ヴァレンティーノの豪華衣装」と宣伝されたのも、主役(ヴィオレッタ:フランチェスカ・ドット/以下F.ドットと略記、アルフレッド:アントニオ・ポーリ/以下A.ポーリと略)のキャリアを考えれば宜なるかなと思います。第一幕で深緑のドレスの上に薄いピンクのレースをはおり(映画ではもっと黒いドレスの記憶あり。照明のせいか?)、中央の螺旋階段を降りながら歌うF.ドットの声は、完璧な音程と澄んだ素直な音色で、さすが老舗歌劇場の選んだ新星の感がありましたが、「乾杯の歌」の掛け合いから「E storano」のアリアまでは声がやや迫力に欠けるこじんまりしたおもむきで、オケピット近傍の私の席でこれでは、遠くまで声が通るのかしらん?とやや心配でした。体から迸る声のエネルギーがビリビリと感じられない、でもきっと場面を考え抑制していたのでしょう。次の「Follie!」では抑えていた相当な力を発散し、愛を受け入れたヴィオレッタのアリア、屋外のアルフレッドとの歌の掛け合いを声高らかに歌い上げ第一幕を閉じたのでした。一方A.ポーリも立ち上がりから次第にエンジンがかかり盛り上がって来て、ヴィオレッタから一輪の白椿を渡される二重唱では、切実な愛の訴えが伝わってきました。やはりヴィオレッタには白椿(camerias blancs)が似合いますね。椿姫の著者は何故、幾多の花の中から椿を選んだのか長年不思議に思っていましたが、“この花に香りがなかったため”だそうで(澁澤龍彦「バビロンの架空園」河出文庫47p)腑に落ちました。確かに呼吸器疾患の患者の場合、強い香りの花は体に合わなかったのかも知れません。ちょっと脱線しますが、今回大ホール一杯の観客層は一瞥した感じでは女性客が多い様に見受けられ、幕間のFoyerでは様々なドレスを身に着けたご婦人方が飲食・談笑に花を咲かせていました。中には和装の方がかなりおられて、様々なきれいな花をあしらった帯をきりりと締めておりました。おひと方だけ大きい白い椿花と小さめの赤い椿をデザインした帯を締められており、ああこの方はきっと椿姫の物語をよくご存じなのだナーと感心しました。話を戻しますと、第二幕、アルフレッドの「O mio rimorso ! O infamia(ああ自責の念!不名誉だ!)」 のアリアの最後「ah,l’onta lavero(恥を拭い去ろう)」の最後の最後‘~ro’をA.ポーリは、低い音(楽譜が無いのではっきりしませんがdo2(C4)の音か?)で歌い終わったのでした。アリア自体は相当力強くテンションが上がっていたのに最後の音が下がり“臥竜点睛を欠く”のきらい有り。一オクターブ高い音(do3)で終わるのはベルゴンツィ、ポッジなどのテノール、低い方は今ケース、ヴィラソンなどを聞いたことがあります。やはり高い音で歌い切って欲しかった。盛り上がりも、聴衆の反応も格段に違っていたと思います。次に父ジェルモンの登場です。当初予定のジェルモン役は有名なレオ・ヌッチだったのですが、体調不良でアンブロージョ・マエストリ(以下A.マエストリと略)が代役になったそうです。代役はリスクが高い。代役を見事にこなし主力の座を勝ち取った例もあれば、代役の調子が悪く代役の代役を立てた例も近年ありましたね。A.マエストリは大きな体一杯からバリトンの心地良い太い歌を響かせ、聴衆からアルフレッドを超える様な大喝采を浴びていました。今回の公演の大きな収穫の一つではないでしょうか。ヴィオレッタに身を引く様に説得するジェルモンのソロ、二人の掛け合い、デュエットも良かったですが、特に素晴らしかったのは、交際をあきらめる様に説得された後のヴィオレッタの苦悩のアリアを、F.ドットは抑制のきいたしみじみとした歌声で心に滲みる演奏をしたのです。それまでで一番の拍手と掛け声がかかりました。大声を張り上げて朗々と華やかに歌いあげる詠唱曲よりもこうした場面の歌の方が、今のF.ドットさんには向いているのかも知れません。まだお若いですし、これから場数を踏んで観客の共感を少しずつ引き寄せ、一回りもふた回りも大きくなってローマの花、いや世界のプリマドンナに飛躍する素地は十分あると感じました。
一方コッポラさんの演出は随所に工夫が見られ、例えば第一幕の大階段を一流ドレスに身を包んだ背高かのヴィオレッタが下りてくるところは、あたかもヴァレンティーノのファッションショーを見ているかのようです。階下につながる階段は、玄関に通じるのが普通だと思いますが、敢えてサロン(リビング・宴会室)につなげ、次の乾杯の歌と宴会場面を盛り上げるアクセントとしている。それから第二幕第一場の窓の外の風景。映画を見た時は、緑の広々した緑地が映しだされ、“パリ郊外というよりはイングランドの田舎風景に似ているな”とやや違和感があったのですが、今回は空と雲の流れが映され、愛の巣の歌声の時には青空に白雲の流れ、ジェルモン登場後は不吉な赤身を帯びた空に黒っぽいネズミ色の雲を流し、不安な場面を象徴させていました。二幕二場では窓の外に花火も光り、パリの華やかな夜を象徴。またヴィオレッタの衣装は第一幕の黒緑から二幕一場で白、二場では赤のドレス、第三幕で白いネグリジェといずれもファッション性の高いもので、白赤緑の色により椿の木を象徴させたとも言えます。総じて衣装、演出とも大成功だったと言えるのではないでしょうか。最後に第三幕での瀕死のヴィオレッタが一冊の本を手に取るのですが、それを見て「聖書」かな?と思ったのですが、後でプログラムの説明を読むと「マノンレスコー」の本なのだそうです。そう、今回のローマ歌劇場のもう一つの演目の原作(アヴェ・プレヴォ作)の本です。これは椿姫の原作「LA DAMÉ AUX CAMELIAS」によれば、アルマン(オペラではアルフレッド)がマルグリット(オペラのヴィオレッタ)に贈った本であり、1ページ目に以下の様に書いてあったのです。
MANON A MARUGUERITE
HUMILITÉ
Armand Duval
即ち意味は、「マルグリットへマノンをおくる。 Humilite (※仏語のアクサン記号は略)アルマン デュヴァール」 ここで太字部の意味は「謙虚」であり、英語のHumility に相当する。派手な生活の点で共通するマノンを読ませることにより、謙虚になって欲しいという意味か?
椿姫より100年以上も前の本で、日本でいえば今日漱石や鴎外を読む様なもの。椿姫の時代にとっては古典とも言えるでしょう。きっと勉強好きなマルグリットは一字一句漏らさず精読したのではないでしょうか。学ぶことに熱心であることは、(この場面はオペラ化されていないのですが、)原作中ピアノを学ぶ場面で分かります。ウェーバーの「Invitation a la danse(舞踏への勧誘)」を何回弾いても同じ部分(le passage en diese)で引っかかってしまいそこが弾けない。アルマンの友人ガストンに弾いてみて欲しいと頼み、再度挑戦するが同じ個所「re.mi,re,do,re,fa,mi,re」に来るとまた立ち往生してしまう。「diese」は♯であり、岩波文庫「椿姫」の注九五によれば、この曲は変記号だから「結局、これはデュマの誤りとしか思われない」と書いてあるが、著者は楽譜を見ながら小説を書いた筈ですから、間違う訳が無いのです。正解は、現在の楽譜では、変ニ長調の曲ですが、当時は嬰記号の楽譜が出回っていたではないでしょうか?即ち嬰ハ長調で書かれていたのでしょう。ご存知の様に変ニ長調と嬰ハ長調は「異名同音」で同一調です。ただ嬰ハ長調では、シャープが7個ついて運指がフラットよりしづらくなるので、避ける傾向があるそ様です。確かに「re.mi,re,do,re,fa,mi,re」の七つの音符すべてが♯記号の影響下となり、しかもre mi が十六分音符でタラッタタタタタとなるので椿姫には弾きづらかったのでしょう。「よく夜中の二時ごろまで(練習を)やる」というくらい熱心なのでした。このピアノ好きの椿姫の場面をどこかに演出出来ないものでしょうか。さてこの位にして一つこれは脚本家への要望になってしまうのですが、干しブドウの砂糖漬けのボンボンが大好きでよく観劇で食べている椿姫、マルグリットからヴィオレッタ(スミレ)と名付け直したついでに、「スミレの砂糖漬け(ウィーンのシシイの大好物)」のボンボン好きには出来なかったのでしょうか?