HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

『ノアンの名曲たち・ショパン』

f:id:hukkats:20200229003625j:plain

ジョルジュサンドの「ノアンの館」

 フランスには「ノアン」という地名が沢山あります。ここで言うノアンは「ノアン=ヴィック」。パリ南方約300㎞の小さな村、領主で貴族だったジョルジュ・サンドの先祖の館はサンドが育った父方の実家で、サンドがパリとの往復を何回となく繰返したノアンの館は、当時はパリから馬車で一昼夜以上かかる道程でした。ノアンの館には超一流の文人、音楽家、画家などジョルジュ・サンドが交流した客人達、フランツ・リスト、バルザック、ショパン、フローベール、アレクサンドル・デュマ・フィス、ドラクロワ等が訪れ、知的交感の場、一種のサロンだったのです。ショパンはサンドの愛人として1839年以降1846年頃まで、ここで主に夏を過ごし、この間多くの名曲を生み出しました。ショパンにとっては、充実した日々だったと推察されます。1839年冬のマジョルカ島でサンド一家と過ごした時も、多くの名曲を書きましたが、この時は、ショパンの体調は良くなく、それは幾つかの曲からも窺える。ノアンでの田園風景に囲まれた、田舎暮らしは多分ポーランドの地方の風景の記憶に似たところがあったのでしょう、きっと。「バラード4番」「ノックターンロ短調」「舟歌」など、落ち着いた中に充実感の感じられる名曲を生み出しています(バラード4番は今年初め仲道さんの演奏を、ノックターンロ短調は、ルービンシュタインの録音で随時、舟歌はつい最近ポゴレリッチの演奏を聴いています)。サンドもパリとノアンを頻繁に行きし、精力的に文学作品を書き続けました。ショパン以前は別な愛人と、逆にショパンも女性関係はサンドだけでなく、互いに異性との愛情を創作活動を高めるエネルギー源としている。「結果良ければすべてよし。」愛情関係は破綻しても、後世に残る偉大な業績を二人共残したのですから、すべて良しと考えるべきです。サンドがショパンの葬式に出なかったのは、出られない位、内心非常につらかったからではないだろうか。サンドを、ショパンを捨てた冷たい男性遍歴女とは考えたくありません。ノアンの生活終了後僅か3年で生涯を閉じたショパン、享年、若干39歳。対するジョルジュ・サンドはその後27年も長生きしたのでした。せめてショパンがあと10年でも生きていたら、他の楽器の曲も多く作っていたかも知れないし、シンフォニーを手掛けたかも知れない。そしてショパンの評価はベートーヴェンやその他音楽の聖人たちをきっと超えていたかも知れません。