HUKKATS hyoro Roc

綺麗好き、食べること好き、映画好き、音楽好き、小さい生き物好き、街散策好き、買い物好き、スポーツテレビ観戦好き、女房好き、な(嫌いなものは多すぎて書けない)自分では若いと思いこんでいる(偏屈と言われる)おっさんの気ままなつぶやき

塩野七生著『コンスタンティノープルの陥落』散読(続き)

Ⅱ.攻防戦前夜

    昨日、オペラ歌手のミレルラ・フレーニさんが亡くなったというニュースが入って来ました。84歳だったそうです。改ためてお悔やみ申し上げます。フレーニさんを最後に聴いたのは2000年になる少し以前だったと思います。来日コンサートでした。最盛期は過ぎたと言う人もいましたけれど、安定感と伸びのあるしなやかな歌声は、さすが一時代を画した名ソプラノだと大感激した記憶があります。パヴァロッティと幼馴染みだった様ですね。同じ街から世界トップのオペラ歌手二人をしかも同時期に輩出するとは、いったいイタリアの国とはどういう国なのでしょう。単なる偶然とは思えません。ここ暫くは、録音でフレーニ節を聴いて追悼の念を表したいと思います。
 さて、塩野七生著作の続きです。ローマ帝国の流れをくむビザンチン帝国は前回も書きましたが、9~11世紀頃全盛となり、その後次第に衰退の方向に進んで弱体化し、ついには1453年新興強国のオスマントルコにより、首都コンスタンティノープル(以下Constanと略記)が落とされて滅亡したのでした。オクタヴィアヌスから連面と続いたローマ帝国は、事実上亡んだと言って良いでしょう。その首都陥落の5月から前年(1452年)の夏まで遡って、攻防戦前夜の状況を塩野さんは詳細に書き記しています。当時のConstanを取りまく状況と言えば、30年前にトルコに攻撃されて包囲され、陥落はしなかったものの年貢金支払い等を負わされて、事実上トルコの属国化していました。また、イタリア諸都市国家の海洋進出と貿易の発展は、ヴェネツィア、ジェノヴァ、フィレンツェなどが、Constanの周囲に海軍基地や領地化した貿易拠点を置くことを許す状況であった。即ちConstanは事実上、袋のネズミだったのです。30年前の包囲戦でも陥落しなかったのは、Constanの三重に渡る鉄壁の城壁のお陰であると自信あり気に考える人もいた。しかも30年に渡って、トルコの目に見える攻撃的挙動は何もなったので、楽観論が支配的であった。ところが、トルコのスルタンの死去に伴い、1451年2月に新スルタンに即位した息子のモハメッド2世は、翌年の2月から半年の突貫工事で、ボスポラス海峡沿いのConstanの目と鼻の先に「ルメーリ・ヒサーリ」と名付けた要塞を構築してしまったのです。建設理由は、“海峡にスペイン人海賊の横行が目立つので、海峡航行の安全を期するため”。あれ、どこかで聞いた様な話ばかりですね。“某国の事実上の皇帝に就任した政治家は、南沙諸島海域暗礁を埋め立てて人工島を建設させ、常設司法裁判所の国際法違反の判決も馬耳東風に知らん振りし、事実上の軍事基地化を図っている恐れあり。”“ホルムズ海峡での海賊等の横行から日本タンカーの航行の安全を期するため・・・・を行う。”などなど、ついこの間聞いたことのある話に余りにも似通っている。やはりトルコの要塞建設はConstan攻撃の布石だったのです。また弱冠20代の新スルタンは、ハンガリア人の技術者の新大砲製作の売り込みを受け入れ、巷間難攻不落と謂われていた、Constanの城壁をも打ち破るという巨大大砲の試作を始めるのです。スルタンに売り込む前に、このハンガリア人は何とConstanの皇帝のもとに売り込みに行ったが断られたと書いてあります。スルタンは、技術者がConstan側に提示した報酬の3倍を払ったそうですから、歴史にIFはあり得ないですが、若しConstan 側がハンガリア人の提案をのんでいたらと思ってしまいます。なおこの時代の大砲は火薬の砲弾ではなく、大きな丸石を詰めて、飛ばすものだった様です。
 Constanを応援する国々は、キリスト教国のジェノヴァ、ヴェネツィア、クレタ、アンコーナ(伊)、カタロニア、ウロヴァンスなどの海洋船団+ビザンチン帝国船団の都合26隻。陸上戦力はたったの7千人くらい。これに対しトルコ勢力は、数十万の軍勢、これでは戦いにならないでしょう、ただ籠城するのみか? でも、紀元前のその昔、ペルシャ軍の大軍(約200万か?)を圧倒的に少ない軍勢(5~7千と謂われる)で戦ったギリシャ連合軍のことをどうしても思い出してしまいます。この時のレオニダス王率いるスパルタ軍の戦闘振りは語り草になっていますね。スパルタ300人の軍勢が全滅するまで戦い、2万のペルシャ兵を倒したというのですから信じられない位の勇猛さです。今どこの国に自らを犠牲にし、何事でも先頭に立って指導する指導者がいるでしょうか?これは映画された「スリーハンドレッド」で観た事があります。結局ギリシャは負けたものの、善戦したこの戦いのお陰で海軍整備の時間が稼げたことが、後日サラミスの海戦で圧倒的多数のペルシャ軍をギリシャが打ち破ることが出来た、大きな要素となったというのが通説になっています。(続く)